「性・生・政」をブリコラージュするかけがえのない営み 本橋哲也 / 東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ 週刊読書人2022年11月18日号 中上健次論 著 者:渡邊英理 出版社:インスクリプト ISBN13:978-4-900997-86-8 今年二〇二二年(ヨーロッパ的近代の根幹を成してきた植民地主義的資本主義的体制がついに地球環境を不可逆的に破壊することが誰の目にも明らかになった年として後世の歴史家が叙述するかもしれない年)は、中上健次が一九九二年八月に四六歳で亡くなってから三〇年にあたる。その節目の年に、その名も『中上健次論』とただ記された、小さな活字で五百頁を超える書籍が出された。これは「驚愕すべき出来事」と言って過言ではない。短い枚数でこの浩瀚な書物を概観して紹介することはそもそも無謀な企てであるので、ここでは評者なりにそれを出来事と呼ぶ理由を考えることで書評に代えたい。 評者はこの本の基となった著者の博士論文の副査を二〇一二年に勤めさせていただいた経験があるので、この書物を手にするまでその内容もある程度頭に入っていたつもりだった。その博士論文は、中上健次の小説を入り口としながら、そこに崎山多美や干刈あがたといった沖縄奄美の小説家たちの作品を組み合わせて、「再開発」という歴史的経済的政治的文脈のなかで、路地と群島を鍵として論じる説得的な成果であったが、他方で中上とその他の文学との有機的な連関が明確ではないという印象も抱いた。ところが本書では、崎山や干刈の名前はすっかり姿を消し、その代わりに(きわめて詳細な索引を見れば明らかなように)二〇世紀末以降のさまざまな「ポスト」思想の潮流が余すところなく参照されている。著者が一〇年間をかけて、中上の「作家論・作品論」を、現代文学批評の水準からしてこれ以上は望めないほどの「思想書」として変成したことに、評者はまず驚愕した。この再生過程には、現在の日本語圏におけるもっとも卓越した出版人・編集者の一人である丸山哲郎氏の多大なる貢献があることは言うまでもないことだろう。読者がどの章を読まれても体験されるように、その意味で本書は、中上健次の文学を包括的に論じたテクスト批評の決定版であると同時に、日本語現代文学研究の水準を現代思想の翼を借りて一気に世界の中空にまで高めたわけで、今後、洋の東西を問わず特定の作家や作品について、少なくとも一冊の批評書を書こうとすれば、どうしても通らざるを得ない関門を創造してしまった出来事なのである。 こう書くと本書が、中上文学を使って現代思想のエッセンスを紹介すると思われてしまうかもしれないので、すぐに付け加えると、第二の驚愕の理由は、本書が「(再)開発」「差別」「資本」「人間中心主義」「神話」「共同性」「仮設性」「公共性」といった大キーワードと、「路地」「地図」「群れ」「動物」「鬼」「賤者」「在日」「乳母」「インセスト」「雑草」といった小キーワードを、次々とランダムに導入していくように見えて、実はそこにきわめて綿密なリゾーム状のタペストリーが紡がれていることだ。たとえば、「(再)開発」を「仮説」空間として定義して「群れ」の表象を論じる次のような論理展開に驚かないだろうか―― 人間社会の出来事である(再)開発とはまた、自然に対する人為の浸食である。この人間中心的な自然環境への関わりに対し、「仮設」、そして群れとは、人間と人間ならざるものを含む開かれた共同性という路地のビジョンの顕れでもある。人間を超えて人間以外の動植物たちまでもが切れながらつながる。この共同性は異種の互助関係を含み、被傷性に満ちた生きものたちは互いに他に乗り入れている。したがって群れに形象化される共同性は、多孔的で間主観的な連なりである。こうした生は、その脆さ儚さゆえに単独では可視化することが困難であり、ゆえに集団性において顕れる。と同時に、群れは、その脆弱な生のそれ単独で可視化することの困難さを可視化しているとも言える。(二二頁) 第三に驚愕するのは、ともすれば多くの批評書や文学研究書が閑却しがちな「アクチュアリティ」、すなわち中上を「思想」として読むことが、二〇二二年の世界に生きる私たちにとって、いったいどんな意味があるのかという視点を絶対に手放さないぞという著者の意志が頁の表裏から伝わってくることだ。たとえば、「葺き籠り」における「媒介者」の表象をグローバリゼーション下の私たちの居場所として捉える次のような一節―― 遍在する資本によって差別・被差別は再編され、路地もまた非対称な差別が温存されつつ、その包囲網へ取り込まれていく。そこでのわたしたちは、法の内に法外状態が常態化された、内であると同時に外でもある場所におかれる。「葺き籠り」が描く媒介者の場所とは、資本によるグローバルな包囲網の管理下にある様々な地点・時点の人民たちの群れの場所、現代のわたしたちの居場所である。(三一〇頁) 中上文学は易しく面白く読める物語ではないという感想を最初は持つ人が多いかもしれない。しかし本書に触れた読者は、中上の晦渋な文体や錯綜した筋書きが、現代を生きる私たち自身にとって必要不可欠な思索の連なりを試行する苦闘の証しであることを体感するだろう。現代世界を席巻しているかに見える新自由主義や新帝国主義や情報至上主義の幻影からいったん身を引き剝がして自らのエコロジー空間を見つめてみれば、私たちの世界が、直線的で他者排除的な「開発」の論理に抵抗する「路地」という仮説/仮設/架節的な空間からできていることがわかる。『中上健次論』は、文学を思想として読むことが私たち自身の「性・生・政」をブリコラージュするかけがえのない営みであることを教えてくれるのだ。(もとはし・てつや=東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ)★わたなべ・えり=大阪大学大学院准教授・近現代日本文学。編著書に『クリティカルワード文学理論』(共編著)。共著に『〈戦後文学〉の現在形』『文学理論の名著50』など。