「知者の支配」/エピストクラシーという統治形態 福間 聡 / 高崎経済大学教授・社会哲学・倫理学 週刊読書人2022年11月18日号 アゲインスト・デモクラシー 上・下 著 者:ジェイソン・ブレナン 出版社:勁草書房 ISBN13:(上)978-4-326-35186-2/(下)978-4-326-35187-9 本書は政治哲学者のジェイソン・ブレナン教授(ジョージタウン大学)による、デモクラシーという統治形態に対する批判的な考察が示されている書である。今日世界において専制主義、あるいはポピュリズム的な政治体制が拡大している状況にあるとして、デモクラシーの危機が叫ばれている。ではデモクラシーは専制主義やポピュリズムに対抗でき、正しい政治的決定をもたらすことができる統治形態であるのだろうか。しかしながら、デモクラシーの本質である選挙を通じて、市民自らがそうした非民主的な政策を行う政治家を選んでいる場合、デモクラシーがデモクラシーを脅かしているともいえる。ではこうした撞着を解消でき、またデモクラシーよりも優れていると考えられる統治形態はないのだろうか。本書でブレナンがデモクラシーの代替案、あるいは改革案として提起しているのが、知者の支配と訳される「エピストクラシー」である。 ブレナンはまず、デモクラシーによる統治がうまくいかない(ブレクジットが可決されたり、トランプが大統領に選出されたりなどする)原因として、市民のほとんどが無知で、非合理で、誤った知識を持つナショナリストである点を挙げている。投票者は基本的な経済学や政治学の重要な争点について、体系的な間違いを犯しており、バイアスを有しがちであることを、アンケート調査や政治心理学の調査に依拠してブレナンは論じている(政治哲学の書でありながらこうした経験的エビデンスを論証の中軸としている点に本書の特徴があり、その説得力を高めてもいる)。エビデンスに基づくならば、デモクラシーの要諦である政治参加や熟議は市民を愚かにし、堕落させるのであり、正義感覚の能力や善の構想のための能力を高めることもない。また市民に平等な選挙権を付与することが市民に対する尊重を表出するために必要であるという象徴的議論は失敗しているとブレナンは断じている。 ではデモクラシーにおいては形式的にせよ、市民に平等に保障されている選挙権はエピストクラシーにおいてはどのように理解されるのだろうか。適切な医療行為を行うことが可能であるためには、医学的な知識が必要なように、適切な投票行動を行うことが可能であるためには政治に関する知識が必要である。それゆえ医師免許と同様に、選挙での投票にも知識に基づいた免許要件を課すべきものとなる。こうした投票者免許制が必要であるのは、誤った医療行為が患者を害するように、誤った投票行動は他の市民を害するからである(こうしたアナロジーを多用している点も本書の特色である)。たとえば移民政策に関して、多くの市民が治安悪化や賃金引き下げを懸念し、移民の受入に反対している候補者に投票するならば、それは間違った知識に基づく投票行動であり、国内のみならず世界全体の経済発展を阻害している(実証研究によれば、移民は移民先の人びとと比較して犯罪率は低く、国内のほとんどの労働者の賃金を押し上げることが分かっている)。市民は有能な政府によって統治される権利を有しており、無能な政府は無知な投票者が質の低い候補者を選択することによって生じるならば、投票できる市民を十分な知識を有している者に制限するか、あるいは投票結果が適切か否かを裁定する拒否権を有した知者による評議会が設立される必要がある(エピストクラシーの可能な形態として他に、より有能で豊富な知識を有している市民に追加の選挙権を付与する複数選挙制や、ランダムに抽選された予備投票者の中で、一定の能力養成実習に参加した者だけに選挙権を付与する参政権くじ引き制、市民の客観的な政治的知識に基づいて各自の票が重みづけられる加重投票制などが挙げられている)。 こうしたブレナンの主張の中心には、政治システムについての道具主義がある。すなわち、現実世界においてよく作動するのはどのシステムなのかという点から、デモクラシーとエピストクラシーを比較評価しており、デモクラシーという政治システムに市民の自己決定や自尊の基礎を保障するといった非道具主義的な価値を認めていない。望ましい社会的諸条件を前提にした理想理論の観点から論じられることの多いデモクラシー擁護論に対して、現実の社会的状況を踏まえた非理想理論の観点から論じられているブレナンのエピストクラシー擁護論は、デモクラシーを脱魔術化する効果があるといえる。 ではエピストクラシーは望ましい政治システムとなりえるのだろうか。最後に評者の疑問を述べたい。投票免許制に関しては、確かに医師免許や危険物取扱免許と同様に単に特定の分野に知識があることをこの免許は標すだけで、象徴的な意味を社会において付与しないのであれば問題無いだろうが、そのような割り切りは可能だろうか。すなわち、投票免許を有していない市民は有している市民に対して劣等感を抱くことなく、「政治的な知識を有した優れた人たちが私たちの市民的自由を保障するために働いてくれている、ありがたい」と思えるだろうか。また免許を有している者は有していない者を二級市民とみなしはしないだろうか(あるいは、有していない者は自らを二級市民とみなさないだろうか)。また、政治についての知識がある者とはそうした知識を獲得するためのコストをまかないうる恵まれた家庭環境で生まれ育った者であり、それゆえに高い学歴と教養を身につけているとするならば、エピストクラシーは形を変えた「富者の支配」となるのではないか(知識がある者は正しい政策であるとして、貧困層を配慮した政策を支持するのだろうか)。本書の訳者解説によればブレナンはリバタリアンであるとのことだが、それ故か、資本主義体制下では必然的に経済的な支配力が政治にも影響を及ぼすという問題について、考慮してはいない。これまでのデモクラシー擁護論は政治的な平等のみならず、経済的な平等(再分配)についても擁護してきたが、ブレナン流のエピストクラシーでは社会格差をどのように解消できるのだろうか。それとも、市民的諸自由が保障されてさえいれば、解消する必要はないと考えているのだろうか。こうした疑問は残るにせよ、デモクラシーという政治システムを擁護したい者はブレナンからの挑戦に応える必要がある。 本書の訳は極めて読みやすく、精度の高いものである。デモクラシーを独断的に固守しないためにも、本書は一読されるべき一書である。(井上彰・小林卓人・辻悠佑・福島弦・福原正人・福家佑亮訳)(ふくま ・さとし=高崎経済大学教授・社会哲学・倫理学)★ジェイソン・ブレナン=ジョージタウン大学マクドノー・ビジネス・スクール教授・政治哲学・応用倫理学・公共政策。二〇〇七年にアリゾナ大学にて博士号(哲学)を取得。