視野狭窄と歴史からの乖離を克服する 遠山弘徳 / 追手門学院大学経済学部教授・社会経済学 週刊読書人2022年11月25日号 経済学の認識論 理論は歴史の娘である 著 者:ロベール・ボワイエ 出版社:藤原書店 ISBN13:978-4-86578-359-9 本書の著者ロベール・ボワイエはフランス・レギュラシオン理論──本書での用語を使えば「歴史的制度的マクロ経済学」──の創始者の一人であり、現代資本主義の変化と危機の分析に向けて多くの概念やモデルを開発するとともに、現代資本主義分析を世に送り続けてきた、わが国でも著名な研究者である。 『レギュラシオン理論──危機に挑む経済学』では「フォーディズム」概念を中心に戦後資本主義の成長と危機を鮮やかに描き出し、経済学だけではなく、社会科学全般に鮮烈な印象を与えたことは記憶に新しい。これまでのいくつかの著作をみただけでも、現代資本主義の危機の分析に果敢に挑んできた研究史をたどることができる。そこには、どの時代、どの空間にも適用可能な「グランドセオリー」の構築よりも特定の歴史時間と空間において観察される「社会経済レジーム」の分析が優先されるべきだとする、本書でも強調されるボワイエの理論的立場をみることができる。 しかし、これまでのボワイエの著書に親しんできた読者には、本書は少なからず違和感をもって受け止められるのではなかろうか。もちろんそれは、本書が現代資本主義の「分析」ではなく、「批判」だという点に一因があろう。だが、現代経済学批判としてはすでに『現代「経済学」批判宣言』がある。これまでの著作との違和感を感じさせるのは、この小著が経済学研究者という専門家集団に対するボワイエの失望と憤りが色濃く滲み出たものだからかもしれない。ボワイエの失望は、二〇〇八年のグローバル金融危機にさいして故・エリザベス女王が経済学者に投げかけた率直な、しかしまっとうな疑問──なぜこのような大きな危機を予測できなかったのか──と根を同じくする。 経済学とりわけミクロ経済学は公理系の学問である。現代経済学の歴史はミクロ経済学がマクロ経済学を吸収し、公理系の学問としての経済学の「科学化」を推し進めてきた歴史である。「自分たちの専門分野が科学だ」(九〇頁)とみる経済学者のプライドはここにある。しかし「科学化」は理論的整合性を高めるものの、現実との整合性を欠く。結果、経済学の理論的予測と観察結果は分岐し、二〇〇八年のグローバル金融危機において経済学に対する失望を招くことになる。 本書の魅力が、理論的整合性の行き過ぎた追求がもたらした現代経済学の問題を示した点にあることは確かだ。しかしそれ以上に、なぜそうした専門家集団としての経済学者が生まれるのかという問いが注目されるべきである。ボワイエの答えは明快だ。それは「経済学者という職業集団の組織そのもの」(一三頁)にある。 この職業集団は経済学の標準にしたがって構築されたモデル──高度な数学的技術──によって自らの議論を定式化できない研究者を経済学者とは認めない「自己閉鎖的な専門家集団」(一一一頁)である。集団の中では査読雑誌のランクに依拠した評価基準が確立しており、そうしたヒエラルキーの下では経済学者は自らが帰属する経済学者コミュニティに全面的に服従することになる。さらに経済学の教育課程もそれにしたがって標準化される。歴史学などの他のアプローチには閉ざされ、対話は排除される。しかも、そうした閉鎖集団の中でも査読雑誌の増加とともに、ますます専門分化が進み、経済学者集団の中においてさえ相互の対話は難しいものとなる。 ボワイエはこの集団への諦めの色を滲ませつつ、次の問いかけで本書を閉じる。「二一世紀の経済理論が生まれるのはどこにおいてか。義務、期待、それに業績へのインセンティブを過剰に負わされた大学の中核においてなのか、それとも…さまざまな専門分野に開かれた野心的な研究プログラムが花ひらきうるような、そのような無数の自律的なセンターの協働作業によってなのか」(一七〇頁)。これを危機のたびに現れる陳腐な問いかけとみるか、もしくは今度こそ真摯に受け止めるべきと考えるか。経済学は再び失敗を繰り返すか否かの岐路に立つことになろう。 現代経済学の動向に馴染みのない読者には本書は晦渋なものである。そうした読者には、最初に、「訳者による解説とあとがき」にあたることをお勧めする。ボワイエの理論に通暁した山田鋭夫氏の訳者解説は本書への優れたナビゲーションとなっている。(山田鋭夫訳)(とおやま ひろのり=追手門学院大学経済学部教授・社会経済学)★ロベール・ボワイエ=フランスの経済学者・米州研究所(パリ)エコノミスト。著書に『レギュラシオン理論』など。一九四三年生。