バロック的エロティシズムの淵源を彷徨する 築地正明 / 立教大学、武蔵野美術大学他、非常勤講師・映像論・造形批評 週刊読書人2022年11月25日号 ローマの眠り あるいはバロック的遁走 著 者:谷川渥 出版社:月曜社 ISBN13:978-4-86503-154-6 ひとつの美学的形象、ないしは概念を軸に本書は展開される。「バロック」がそれである。バロック、あるいはバロック的であるとは、とりもなおさず「装飾の過剰」であり、「誇張の様式」であり、「曲線の礼賛」であり、増殖してやまない無限の「襞」等々である。美術史においては、十七、十八世紀ヨーロッパがその盛期とされるが、著者は、その事実を踏まえつつも、「あらゆるバロック論がいやおうなくそこから出発すべき歴史的バロック」、すなわち「ローマ・バロック」を本書の基底に据える。 ところで古代ギリシアを範とする古典、ないし古典主義と呼ばれるものが、正しいシンメトリーとプロポーションの強調のうちにあるとするなら、バロックは確かにそれらを逸脱する。しかしそれは、古典的均整に対立する、歪んだもの、いびつなもの一切を単純に指すわけではない。事態はそれよりもはるかに複雑であり、すべては繊細に絡まりあっている。そこで著者が着眼するのが、おもにルネサンス以降に展開されるバロック主義(「バロキズム」)の淵源にあると考えられる、古代「ローマ・バロック」(あるいはそれとギリシア・クラシックの間の難しい関係性)なのだ。 著者はこの、単に美術史の問題を超えて、ヨーロッパの「精神史」に深くかかわる問題を考察するために、ふたりの芸術家を召喚している。すなわち、本書の前半で考察の主軸となる、一九一三年生まれの現代イタリアの幻想画家、ファブリツィオ・クレリチとその作品《ローマの眠り》、そして後半が、十八世紀バロック期イタリアの奇想的銅版画家、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージとその諸作品である。時代も作風も大きく異なるこのふたりの芸術家の共通項は、そのバロック的構想力にあるようだが、おそらくそれにもまして重要なのは、両者がともにある意味で異様な建築家、幻想的な都市設計者でもあったという点である。異様な、というのは、ふたりの芸術家が繰り返し描いてみせた都市が、ある種の「廃墟」であったからだ。しかも「廃墟」は、すぐれてバロック的な意匠にほかならぬと著者は言う。なぜだろうか。 それ自体が廃墟のごとき作品《ローマの眠り》に描かれているのは、古代から近世までのおよそ十七体もの彫像である。そのいずれもが眠っているか、死んでいる、あるいは恍惚として気絶しているように見える。すなわち「「眠り」と「死」と、そして「法悦(あるいは恍惚)」によって、すべては構成される」。しかも「法悦あるいは恍惚は、ギリシア語のエクスターシスの訳であり」それは「もともと魂が外に出てしまうこと、脱魂の意だから、束の間の「眠り」あるいは「死」であると言ってもいい」。それゆえ、本書『ローマの眠り』の底を流れているのは、単なる「廃墟」、滅びた過去への郷愁のようなものではない。むしろ「死」が想起させる象徴化された生であり、生の受難である。クレリチの横たわる彫像群の死を想わせる眠りの静かさ、またピラネージの描く廃墟画には、現在にまで木霊してくる何かがある。それは「エクスターシス」ではないか。もし、バロック最大の特徴のひとつとされる「襞」が、表層と深層を対立させる代わりに連続させるのだとするなら、廃墟や彫像たちを包んでいる岩塊や衣服の襞もまた、内部と外部を、生と死を断絶させることなく連続させる。バロック的なエロティシズムは、まさしくそこに生じる。 かくして著者は、一方でキリスト教の始まりであるイエス誕生の地であり、ヘブライズムの原点であるエルサレムを彷徨し、もう一方で、ギリシア精神を体現するヘレニズムの地、南イタリアのマグナ・グラエキア(大ギリシア)の遺跡を気のむくままに逍遥する。そして、われわれ読者が本書のうちに見ることになるのは、古代から現代まで幾多の断絶と変遷を経ながら続いてきた「バロック」なるものと、その「時間の重層性」なのである。(つきじ・まさあき=立教大学、武蔵野美術大学他、非常勤講師・映像論・造形批評)★たにがわ・あつし=美学者・批評家。著書に『鏡と皮膚』『シュルレアリスムのアメリカ』『肉体の迷宮』『文豪たちの西洋美術』『孤独な窃視者の夢想』など。一九四八年生。