キルケゴールからウィトゲンシュタインへの系譜 吉田敬介 / 法政大学専任講師・社会哲学・宗教哲学 週刊読書人2022年11月25日号 〈実存哲学〉の系譜 キェルケゴールをつなぐ者たち 著 者:鈴木祐丞 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-529017-0 一八三〇―五〇年代にデンマーク、コペンハーゲンで活動したS・A・キルケゴールの著作は、二〇世紀前半以降、危機の時代の知的源流として様々な言語で広く読まれた。彼の影響圏にいる人物として、哲学の分野では、M・ハイデッガーやK・ヤスパース、J―P・サルトルといった名前がまずもって挙げられる。「実存哲学」や「実存主義」という名称の下で知られるこの哲学者たちの先駆にキルケゴールを位置づける見方は、今やほとんど哲学史上の定式である。まさしくこの定式から距離をとり、一見すると「実存」の思想からは縁遠いように思われるL・ウィトゲンシュタインこそキルケゴールの「よき理解者」(二三三頁)だと主張するのが、本書『〈実存哲学〉の系譜』である。 この主張にあたり、本書は、キルケゴールの思想を〈〉(ヤマガッコ)つきの「〈実存哲学〉」として――上述の二十世紀の「実存哲学」とは区別されるべき哲学として――再構成する。その際に本書は、一八四六年刊行の著作『哲学的断片への結びとしての非学問的後書』(以下『後書』)に注目する。『死に至る病』や『不安の概念』に比するとその重要性が認識されてきたとは言えないこの『後書』においてこそ、現実に存在する人間のあり方である「実存」の概念が提示されているからである。すなわち「実存」とは、「永遠と時間の両方に関わりながら存在する」あり方であり、罪ゆえに神と絶対的に隔てられながらも神人キリストから「罪の赦しという恩恵」が差し伸べられているあり方である(七四頁)。こうした「実存」のあり方を、客観的な考察対象とせず、自らの主体的な問題として「誠実さ」をもって引き受ける思考、つまり「理想」との対比において自らの絶望や罪を認める哲学こそ、本書に従えば、ソクラテスからキルケゴールへと引き継がれた「〈実存哲学〉」なのである。 誠実さをもって自らの現実を認めるよう迫る「〈実存哲学者〉からのメッセージ」は、本書曰く、哲学理論の構築のためにキルケゴールを利用する二〇世紀の「実存哲学」では「聞き流されて」しまっている(一三〇頁)。むしろその精神は、キルケゴールの言葉に強い影響を受けて自らの不誠実さを自覚し「自分のあり方を変革」(一三二頁)するに至ったウィトゲンシュタインにこそ、受け継がれているというのだ。こうして本書は、ウィトゲンシュタインの手稿・日記の記述を丁寧に追うことで、『論理哲学論考』(一九二一年)における理想的視点の不誠実さが自覚され、現実の言語使用の場に立脚した思索――遺稿著作『哲学探究』(一九五三年)に結実する思索――が練り上げられていく過程を、描き出す。この過程の中に、どこまでキルケゴールの思想が生きているかは、ぜひ読者自身が本書を実際に読み、考えてみてほしいと思う。 いずれにせよ、キルケゴール思想についての哲学史上の定式に抗して、十分に解明されてきたとは言えない思想の系譜に光をあてる本書の試みは、狭義のキルケゴール研究の枠を超えた知的刺激を与えてくれる。だがそれを踏まえた上で、一つ疑問を挙げたい。本書において描かれる思想の系譜が、〈〉で括り二〇世紀の「実存哲学」と区別されてまで「〈実存哲学〉」と名指されるのはなぜなのだろうか。本書でも記述される通り(三二―三四頁)、「実存哲学」という語はそもそも、二〇世紀に入ってから上述の哲学者たちの思想潮流を形容するのに用いられ始めた言葉である。対してキルケゴールは、ソクラテスとの関連で「実存」や「哲学」をめぐる考察をしてはいても(八〇―八一頁)、自らの思索を「実存哲学」と称してはいない。むしろこうした定式から身を離すのが、「実存」をめぐるキルケゴールの思考なのではないだろうか。そしてウィトゲンシュタインも、こうした定式や「カテゴライズ」(一三〇頁)に汲みつくされない現実の問題に即した仕方でこそ、キルケゴールの思考を自らのものとしているのではないだろうか。(よしだ・けいすけ=法政大学専任講師・社会哲学・宗教哲学) ★すずき・ゆうすけ=秋田県立大学助教・実存哲学。著書に『キェルケゴールの信仰と哲学』、訳書に『死に至る病』など。一九七八年生。