探し、見つけ、読み解いた新資料を、作家像に組み込む大胆さ 平井裕香 / 日本学術振興会特別研究員(PD) 週刊読書人2022年12月2日号 川端康成 新資料による探究 著 者:深澤晴美 出版社:鼎書房 ISBN13:978-4-907282-85-1 本書は川端康成という作家をタイトルに掲げるが、作家なるものを正面切って論じるという方法は、「テクスト」の語が文学研究・批評に定着して以降しばらく旗色が悪かった。しかしその下火の期間に、退けるべきは作家ではなく、ある現実の出来事と一対一で結びつくという無邪気な作品観、または結びつけて満足する研究・批評観であることも理解されてきた。とりわけここ十年ほどは、オマージュやアダプテーションが盛んに取り上げられるとともに、若年層に向けた作家のキャラクター化が進んでいる。一部の著名な作家たちが、新しい読者や作品・作家が出会い、対話する場として働いていると言ってもいい。それ自体は歓迎すべきだが、あるいは歓迎する条件として、場の力を明らめることがいっそう重要になる。例えば川端康成は、その名のもとにどのような読者、作家・作品を集め、それらの間をつなぎ合わせるどのような道を示すのか。そして視野から外すのか。それはまさしく本書のように、具体的な状況の中での作家のふるまいを逐一検討しなければ、正しく認識することも巧く組み替えることもできない。 すぐに付け加えるべきは、本書が以上を声高に訴えるものではないことだ。理論的な盛衰や現在の文脈を詳述する紙幅を惜しむかのように、三十年に及ぶ研究の成果を淡々と連ねてゆく。もちろん地道一辺倒と評価するのは正当でない。新資料を探し、見つけ、読み解いた結果を作家像に組み込んでゆく大胆さも、本書の大きな魅力である。研究・批評の基礎となる、一九八〇〜八四年刊行の川端康成全集は、本書によれば遺漏も多いが、それでも三十七巻ある。+αに手を伸ばす勇気は只者ではない。「国文学研究」の最良の持ち味としてのタフネスと呼べばいいだろうか。 第Ⅰ部では、川端が文字通り古今東西の文学を吸収すると同時に、演劇・映画の新しい動向にも関与しながら、職業作家としての地歩を固めてゆくさまが描かれる。後年まで頻用される鏡や松、月といったモチーフが最初期の作品に登場すること、失恋を小説化する中で一人称と三人称の折衷のような独特の文体が生み出されることは、特に重要と思われる。第Ⅱ部では、川端が雑誌を介してどのように時代とかかわっていたのかが、大正から昭和の長きにわたって詳しく検討される。編集者・代作者・画家とのコラボレーションや、沖縄(琉球)への態度はもちろん、文学の「玄人」としての自意識・「素人」の文章への憧れの強固さが興味深かった。第Ⅲ部では、内容見本に掲載された推薦文と、未翻刻だった書簡の概要が整理・紹介される。中でも書籍の推薦文は、そこで語られる評価を鵜呑みにしてはならないにせよ、川端の広い守備範囲が窺えて刺激的である。 このように間違いなく内容の豊かな本だからこそ、いくつか要望も浮かんだ。第Ⅱ部第四・六章によれば、文章という回路を通してしか「恋愛」や「生活」に触れ得ない知識人男性としての自覚が、《女》と《日本》への憧憬を裏から駆動したとのことだが、川端は際立ってそれらの「素人」性・純粋性に力点を置いていたように見える。それは一体なぜなのか、アジア・太平洋戦争下での《女》と《日本》の重ね方とも切り離せない問題として、もっと歴史化してほしかった。著者が当時を生きていたら、川端がその文章を好まない利発な「文学少女」の一人になるかもしれないと想像できるからなおさらである。また、フェミニストの『雪国』論は島村批判を川端批判にすり替えていったと指摘されるが、その直前の段落で「島村のみならず作者川端」「「島村」及び作家川端」という表現を使う著者自身、島村と川端を互換可能な存在とみなしていないだろうか。少なくとも主人公と作者・作家の関係を明らかにする手続きは未だ尽くされておらず、その作業を経てこそ著者が目指す「フェミニズム批判の彼方へ」達せると思う。 最後に。本書はゴシップとは無縁の極めて硬派な作品でありつつ、作家の息遣いを感じるエピソードも多く含んでいる。例えば、「星を盗んだ父」は戯曲「リリオム」の翻案として一九二四年頃に執筆されながら、その後の出版不況のために未発表のまま出版社の手に残された可能性が高いという(第Ⅰ部第一章)。創作と研究の違いはあれど同じく駆け出しの物書きとして胸が痛む事態だが、後の強い「玄人」意識はこうした若い頃の苦闘とつなげて考えてみるべきだろう。また、「婦人公論」一九六二年八月号の巻末には、編集者の言として、グラビアシリーズ「作家と女優」の撮影で「鰐淵〔晴子:評者注〕さんに「ショート・パンツになって下さい」といったら、傍から川端先生が「ぼくも着がえましょうか?」とニヤリ」としたことが書かれている(第Ⅱ部第二章)。老若男女の身体がそれぞれいかに扱われているかに注目することはもちろん、ここに見られる諧謔を作品に探ってゆくことも有意義であるように思われる。(ひらい・ゆうか=日本学術振興会特別研究員(PD))★ふかさわ・はるみ=和洋女子大学総合研究機構近代文学研究所上席主任研究員、准教授。川端康成学会常任理事。一九六一年生。