闘争の拠点としての「広場」への思いが広がる 姜信子 / 作家 週刊読書人2022年12月2日号 韓国人権紀行 私たちには記憶すべきことがある 著 者:朴來群 出版社:高文研 ISBN13:978-4-87498-812-1 一九五二年のある日、朝鮮戦争で戦死した青年の遺体が済州島の北村里に帰ってくる。この青年の葬儀で村人たちが「アイゴ、アイゴ」と声をあげて泣いた。すると、その慟哭が罪に問われ、村長をはじめ村人たちが連行、拷問されたというのである。本書に記されている、いわゆる「アイゴ事件」だ。それ以前、朝鮮半島の38度線以南に反共国家を作って南北分断を固定化させようとする米国と李承晩の勢力に対する武装蜂起が、一九四八年四月三日に済州島で起こされて以来、この島ではアカ狩りの名目で至るところで無差別虐殺が繰り広げられたのだった。この4・3事件(~一九五四)のさなか、北村里も一九四九年一月十七日に軍隊に襲われ、老若男女を問わず、三百人もの村人が殺されている。アカの烙印を押され、島民の九人に一人が殺されたともいうこの島では、反共の闘いであった朝鮮戦争での戦死を悲しんではならなかった。 この世には、死を悼んで悲しむことすら抑圧するような、人間の命など使い捨てのコマでしかないような、強大な「暴力」が存在する。著者朴來群は言う。「大韓民国は4・3事件の虐殺の上に誕生した」、「地球上唯一の分断国家という特殊性だけでは説明不十分なほどの抑圧と排除と嫌悪の政治は、日本の植民地支配からの解放後、大韓民国が樹立される過程から発芽したのであり、それは朝鮮戦争をへるなかで強化された」。それゆえにこそ、人権活動家朴來群の「韓国人権紀行」は済州島からはじまらねばならなかったのであり、その旅は「国家暴力」によって命が踏みにじられたさまざまな現場、さまざまな記憶をたどってゆくことになるのである。 済州島を出発点に朴來群が旅した現場を書き出してみようか。 国家によって編集された朝鮮戦争・ベトナム参戦の記憶の館である「戦争記念館」→植民地期から解放後に至るまで、ハンセン病者が強制隔離され、過酷な労働を強いられた孤島「小鹿島(ソロクト)」→虐殺者の責任者たちが処罰されないままの「光州五・一八抗争の現場」→国家機関による拷問の現場である「南山安企部と南営洞対共分室」→独立運動家や民主化運動家が投獄された「西大門刑務所歴史館」 →民主化運動で命を落とした「民主烈士」の墓域がある「磨石牡丹公園」→人々がろうそくを手に集い、ついには朴槿恵政権を倒すことになる「広場」を呼びだした「セウォル号惨事の現場」。 この人権紀行は、著者曰く、「国家暴力のさまざまな原型を発見する」旅だった。国家暴力による死者たちを訪ね歩き、国家によって隠蔽されたり盗用されたりしてきた死者たちの記憶を取り戻し、口を塞がれていた死者たちの声を解き放つ旅でもあった。大切な死者たちと出会い直し、死者たちと共に歩んでゆくこの旅の向かう先は、新しい世のはじまりの場となる「広場」であり、そこに集う一人一人の人間なのであった。生者とともに広場に集う死者たちの中には、きっと、民衆審判による光州虐殺の責任者処罰を求めて一九八八年に焼身自殺を遂げた著者朴來群の弟もいる。 無数の顔で埋め尽くされた本書の表紙絵を見よ。「民衆の力Ⅰ」(富山妙子・画)と題されたその絵は、投獄・拷問にも屈しない著者の活動とそこに込められた思いに深く共鳴した訳者真鍋祐子が選んだもの。そこに描かれているのは、広場に集って国家暴力と対峙した光州市民だ。 そして、「広場」と言えば、日本に生きる私たちがけっして忘れてはならないことがある。訳者が指摘するように、ろうそくデモや光州5・18抗争をはじめとする韓国における「国家暴力」との非暴力の闘いの場としての「広場」の原風景は、植民地支配下の一九一九年に朝鮮全土で繰り広げられた3・1独立運動にあるということだ。言うまでもなく、「国家暴力」の原型もまた、植民地統治下で形作られた。 しかも、朝鮮の民の「広場」をことごとく潰していった植民地の行政組織も、警察組織の末端で植民地権力の暴力の一端を担っていた朝鮮人官吏(いわゆる親日派)も、解放後に清算されることはなかった。38度線以南の共産主義勢力押さえ込みのために、米軍政はいまそこにある組織を使いまわすことにしたのだ。当時の警察組織の人員の八割は旧植民地警察出身者だった。その間の経緯を著者はこう書く。「米軍政は陸地部でもそうしたように、日帝に忠誠を尽くして済州島民に苛政を加えていた日帝警察の元官吏を再び警察官として呼び戻した。彼らは、今度は反共警察となって、米軍政に忠誠を誓った」。これは南朝鮮全土で起こっていたことであり、米軍政からそのまま大韓民国へと引き継がれていった。民主化運動弾圧と拷問で悪名高い南山安企部や南営洞対共分室も、政治犯を収容した過酷で劣悪な刑務所も、植民地警察の時代から脈々と受け継がれてきた「国家暴力」の一つの形だ。光州の虐殺を指示した軍人たちも、旧日本軍の遺風を継ぐ者たちだ。日本で行われたのと同様のハンセン病者排除の仕組みも、もちろん日本の植民地統治の産物だった。 訳者が意を尽くして解説に書いているとおり、本書『私たちには記憶すべきことがある』の「私たち」には、日本に生きる「私たち」も当然に入らねばならない。朝鮮半島の近現代史と日本の近現代史を切り離すことなど、できるはずもないのだから。植民地支配の歴史のみならず、韓国も日本も米軍政による統治を経て、米軍政の都合で過去の悪弊を引き継いだまま、反共の砦として陰に陽に共に歴史を作ってきたのだから。 それを見事に忘れ果てているのか、忘れさせられているのか。思うに、ここ日本で人々が「国家暴力」をなかなか意識化できないのも、意識化したとて闘い方がわからないのも、連帯と闘いの場としての「広場」を開くことが難しいのも、ひとえに歴史の忘却ゆえのことなのではないか。記憶を奪われ、死者の記憶を盗まれ、権力によって編集された歴史の中に囲い込まれていることに気づかぬ日本の「私たち」は、このまま無防備に国家暴力にさらされていくばかりなのではないか。生きるに値する未来を切り拓きたい「私たち」は、いかにして「広場」を開いてゆくのか。本書をひもとけば、そんな問いがふつふつと湧いてくる。 そして、韓国の「私たち」、日本の「私たち」、在日コリアンの「私たち」、国家暴力に抗する多様な「私たち」が共に集う「広場」へと思いは広がってゆくのだ。(真鍋祐子訳)(きょう・のぶこ=作家)★パク・レグン=韓国の人権活動家。人権財団サラム付設人権中心サラム所長。一九八八年光州虐殺の責任者処罰を要求して焼身自殺した弟をもつ。著書に『人のそばに人のそばに人』『ああ!テチュリ』など。一九六一年生。