後続世代に批判的継承を求める書 野口雅弘 / 成蹊大学教授・政治学・政治思想史 週刊読書人2022年12月2日号 マックス・ヴェーバー研究総括 著 者:折原浩 出版社:未來社 ISBN13:978-4-624-40069-9 いまさら紹介するまでもないが、折原浩はマックス・ヴェーバー研究で世界的に知られている研究者である。W・シュルフターとともに、彼は現代のヴェーバー研究を牽引してきた。本書は著者の『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(未來社、二〇一九年)の続編であり、これまでの彼自身のヴェーバー研究を総括する書籍である。 著者が比較的若い読者を想定して、自らのヴェーバー学の総括を試みるのには十分な理由がある。折原浩はある人にとっては東大闘争の中心人物であり、ある人にとっては姜尚中や中野敏男などが参加していた、高田馬場の「寺子屋教室」を開講していた人であり、ある人にとってはヴェーバーの『経済と社会』の旧稿(いわゆる「支配の社会学」など、第一次世界大戦前に執筆された、未完のテクスト群)についての、高度に専門的な論文をドイツ語で執筆し、ヴェーバー全集(MWG)の編集方針を批判した研究者であり、またある人にとっては羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』に徹底的な批判的応答をした人である。いつ、どのような形で彼に出会うかによって、彼のヴェーバー研究の現われ方は異なってくる。著者はその研究のいくつかの段階を総括という形でつなげようとする。 折原は文中でなんども「全体像」という表現を用いている。『経済と社会』の旧稿の「体系的再構成」という困難な仕事を引き受けたのも、「テクストの整備が「全体像」構成の前提」だと考えたからだという。そして方法論についても、研究主体の価値に照らして「知るに値する」対象を選び出す「独話論」の段階にヴェーバーは留まってはおらず、「普遍化」的「法則科学」としての「一般社会学」へとバージョン・アップしたことを、彼は強調する。「日本政治学の「ヴェーバー没後百年」の現状」に彼が疑問を呈するのも、「厳密かつ相互補完的・総合的に」読まれるべきものが読まれていないというのが、一つの理由である。 本書では、こうした全体像の理解をもとにして、主として宗教社会学論集の三著作『ヒンズー教と仏教』『儒教と道教』『古代ユダヤ教』が読み解かれる。今後、これらの著作を自力で読もうとする読者にとって、本書は格好の手引きになるだろう。 『古代ユダヤ教』をめぐって、折原は「マックス・ヴェーバーと辺境革命の問題」(『危機における人間と学問』未來社、一九六九年所収)で引用したのと同じ一節を本書でも引用している。宗教・思想の革新は、大文化の中心から離れたところでのみ可能であり、それには「驚嘆する」力が不可欠であるという一節である。「飽満した」民族にはいかなる未来も開かれない、という「ロシアの似而非立憲主義への移行」の末尾をこの一節につなげるのも、旧著と同じである。しかし、違いもある。一九六九年の折原はここからヴェーバー自身もそれに囚われていたヨーロッパ中心主義を問い直そうとした。これに対して二〇二二年の著者は「西洋近代文化」総体の特性把握と因果帰属というより包括的―普遍史的な図式に、ヴェーバーの議論をまとめる。 本書で提示される「全体像」にほころびはない。しかし、全体はわかっていなくても、あるいはそうであるがゆえに、中心に違和感を持って抗う「辺境」の視点というのは、全体像に包摂しうるものなのか。この疑問は責任倫理についての折原の記述の仕方への疑問にもつながる。彼は「責任倫理の確立に寄与する」と述べる。しかし、ヴェーバーは、信条倫理と責任倫理は止揚できないとして大審問官を持ち出す人であり、レジティマシー論にカリスマ概念を持ち込んだ人であり、教会の普遍主義とゼクテ(教派)のラディカリズムのアンチノミーに決して優劣をつけなかった人である。私は、全体像と責任倫理では語れないものに、どうしても関心を寄せてしまう。こうした関心は私自身の未熟さのせいであると同時に、ヴェーバーにおける「政治的なもの」の評価にかかわるようにも思える。 私は折原浩から直接バトンを受け取る立場にはない。しかし、書籍として差し出されたバトンの受け取り方にはいろいろな形があってよいだろう。ただ、どのように受け取るにせよ、彼の総括は今後のヴェーバー研究が踏まえるべき出発点でなければならない。(のぐち・まさひろ=成蹊大学教授・政治学・政治思想史)★おりはら・ひろし=東京大学名誉教授・社会学。著書に『東大闘争総括』など。一九三五年生。