当事者の経験を通し、ともに考え議論する 吉野靫 / 立命館大学生存学研究所客員研究員・クィア・トランスジェンダー 週刊読書人2022年12月9日号 トランスジェンダー問題 議論は正義のために 著 者:ショーン・フェイ著/清水晶子解説 出版社:明石書店 ISBN13:978-4-7503-5463-7 「女性問題」で辞職した政治家、というフレーズには、女性にも責任の一端があるかのような響きがある。実際には政治家の人間性が引き起こした「問題」であっても、だ。同様に「障害者問題」、「在日外国人問題」というとき、その「問題」は本当はどこにあり、誰が抱えているのか。——では、「トランスジェンダー問題」ならば? 本書の射程は明確だ。英国のメディアでは、トランスジェンダーをめぐる議論がかまびすしい。トランスの定義、ジェンダーアイデンティティの根拠、医学的処置の妥当さ、究極的にはトランスという存在の是非までが、当事者抜きに議論されている。そうした空虚な言葉がトランスの人々を圧倒しようとする状況に抗して、自らも当事者である著者は筆を執った。論争のネタや哲学的な思考実験としてではなく、トランス当事者が生きる、実際の経験に根ざした議論のために。 既に多くの書評が出ている本書についてさらに何かを述べるのは荷が重いが、日本のトランス当事者の状況に関心を持つ読者ならば、まずは第三章まで読んでみてほしい。プロローグから第三章までは、日本の状況に引きつけて理解し、想像することも(比較的)容易だからだ。 第一章「トランスの生は、いま」では、英国の若いトランスが経験する学校での受け入れやいじめ、また様々な福祉サービスで当事者が苦境に立たされることを書く。教育も福祉も男女どちらかであることを求めるが、本人の外見や移行状態によってはいつでも「適応」できるわけではない。日本ではしばしば「ジェンダーレス制服」なるものが話題になるが、それを着ることが「望む性別として通学すること」なのか。二〇〇〇年代始めの「ジェンダーフリー/過激な性教育」バッシングも思い起こしてほしい。教育の場で何が排除され、どのような生徒の存在を拒んできたのかを。 第二章「正しい身体、間違った身体」では、性別移行にまつわる医療資源の乏しさや医師による「本物らしさ」の判定(ゲートキーピング)、医療現場で起こる当事者たちの傷つきについて書かれる。この状況は、英国と日本でかなり似通っている。国内で診察や手術を受けるための長い待ち時間、カウンセラーや精神科医による(必要性のわからない)個人的な質問、より「本物らしい」女/男として通用することが望ましいという圧力、などである。トランスのヘルスケアが性別移行の文脈でのみ語られ、ごく一般的な医療を必要とするとき困難に見舞われる点も同じである。 第三章「階級闘争」は、トランスであるゆえに陥りやすい不安定雇用や就職差別、階層の違いが性別移行の成功に大きく影響することを述べる。日本でも、トランス当事者が職場でのハラスメントやアウティングを訴えるようになったが、それは氷山の一角にすぎない。社会でより「受け入れられやすい」容姿のために、トランス女性ならば脱毛やFFS(顔の女性化手術)を選ぶこともできるが、それは大きな出費を伴う。英国でも日本でも、そういった現実の生活や経済的困難がトランスの人生を左右することは省みずに、性別移行という行為そのものを一種の思想のように扱う「おしゃべり」だけが続いている。 第四章以降は、セックスワークや性的マイノリティの権利獲得の歴史、軍隊や刑務所など国家権力下のトランス、フェミニズムとの関係などが記述され、激化するトランスジェンダー差別の構造についても理解を深めることができる。 本書が、トランスジェンダーが社会で直面させられる困難について体系的にまとめた、優れた一冊であることに疑いはない。ただ頭の片隅にとどめておいてほしいのは、まっさらな論点ばかりを携えて海外からやってきた本、ではないということである。日本のトランスたちも、常にそれぞれの「問題」を書き続けてきた。性別移行を始めて収入の道が絶たれたエピソードを含む『男でもなく女でもなく』(一九九三)、日本で性別適合手術ができない時代に渡米した記録である『女から男になったワタシ』(一九九六)、クモ膜下出血と脳梗塞を起こしているのにトランスゆえ受け入れ拒否に遭った著者の『トランスジェンダー・フェミニズム』(二〇〇六)。これらはどれほど話題になったろうか。そしてトランス当事者が訴えた内定取り消しや医療事故も、十数年前は全国ニュースになどなりはしなかった。これらが社会と切り離された、トランス個人の「問題」と見なされていたからである。 いま、本書の鮮烈な赤い表紙に「問題」にすらならなかった人々の声も重ね合わせ、これからは一緒に「問題」を抱えようとする読者が現われることを願う。(高井ゆと里訳)(よしの・ゆぎ=立命館大学生存学研究所客員研究員・クィア・トランスジェンダー)★ショーン・フェイ=イギリス・ブリストル出身。現在はロンドンを拠点に活動。慈善団体のAmnesty InternationalやStonewallで働く。Dazedの編集長を務めたほか、Guardian、Independent、Viceなどで執筆活動を行う。LGBTQの先駆者たちにインタビューするポッドキャストシリーズ「Call Me Mother」を立ち上げ、高い評価を得る。本書が初の著書となる。