「亡命者(エグザイル)」となることの「最初の種子」 笠根唯 / カリフォルニア大学サンディエゴ校文学部博士候補生 週刊読書人2022年12月9日号 慶應義塾とアメリカ 著 者:巽孝之 出版社:小鳥遊書房 ISBN13:978-4-909812-95-7 本書は二〇二一年三月に慶應義塾大学を退職した巽孝之氏の新著である。日本でアメリカ文学研究といえば「巽孝之」、そして「巽孝之」といえば「慶應義塾」なのだから、その意味で、本書のタイトルにある「慶應義塾とアメリカ」という研究テーマは、巽氏自身へのメタな言及でもある。巽氏の研究者としてのキャリアを通して浮上したこのテーマは、彼において次第に重要度を増し、やがて巽氏自身がその当事者となったのである。本書は、巽氏のキャリアにおける偶然の重なり合いの末に生じた必然の賜物である。 本書は三部構成になっている。第一部は、二〇二一年三月に行われた最終講義の内容となっている。ここでは「失われた大義」という南北戦争後、敗北した南部が作り上げた自己正当化の物語が、その文脈を越えて現代に至るまで、「アメリカ合衆国全体が共有すべき文化的財産として国有化」されていると、まずは指摘する。そして巽氏はこの「失われた大義」を福澤諭吉がいかに受容したかを見ることで、福澤の中に十八-十九世紀のアメリカの文人・文学者――ジェファーソン、エマソン、ソロー、トゥエイン――がスペクトラムのように乱反射していると主張する。 第二部は、欧米のモダニズムと慶應義塾との関係性を論じている。福澤の中に、独立の精神に裏打ちされるアメリカ的な近代意識(モダニティ)を見ることに始まり、永井荷風の『あめりか物語』における「いき」とハードボイルドに象徴されるモダニズムとの共振、イマジズムの詩人エズラ・パウンドにおける俳句とヨネ・ノグチの影響、そして西脇順三郎がパウンドよりノーベル文学賞級の詩人として認められたことが細かく論じられている。結語の箇所はやや独立しており、西脇の弟子である由良君美と鍵谷幸信との対比を通して、西脇の影響が昨今注目されつつある「世界文学」という概念とどう接続されるかが詳述されている。 第三部は、巽氏自身がライフワークと称する作家生命論についてである。作家生命論とは、「作家自身の個体としての生命、死後の文学史的生存としての生命のみならず彼または彼女が生み出してきた作品そのものの生命を統御する法則」について考えることである。巽氏は、トゥエインの『彼は死んだのか?』を読むことで、なぜジャン=フランソワ・ミレーはアメリカにおいて爆発的人気を誇ったのかを論証していく。そしてこの論証を通して、巽氏は作家生命論の三つの法則を帰納的に導き出していく。一つ目が、作家の真価は死後認められること。二つ目が、調和や解決を避け、難解で矛盾を抱える作品であること。三つ目が、後世に模倣され続けることである。そして最後に巽氏は、エドワード・サイードの『白鯨』誤読をめぐるジョン・ブライアントとの論争に触れ、ブライアントがサイードの誤読を擁護することに、『白鯨』の創造的再編集の可能性、つまり作品の再生を見るのである。 本書の議論が斬新で興味深いことは言うまでもない。だが私のように慶應義塾と直接関係の無い人間がこの本を読んだ時、次のような疑問が現れてくる。すなわち慶應義塾という「システム」、あるいはアメリカという「システム」が生み出す社会的分断を、本書で扱った文人・作家たちはどのように捉えたかという疑問である。慶應義塾を創設し、明治期の日本人に対して啓蒙活動を行った福澤は、後年、大日本帝国的論理に組みすることになった。十九世紀のアメリカも、経済活動と啓蒙活動を目的として太平洋を渡り、日本をその射程に捉えていたことは明らかである。このようなマクロな視点は、「慶應義塾とアメリカ」というテーマに、別の角度からの切り口を与えるだろう。 だがそのような疑問はおそらく織り込み済みだろう。実際、作家生命論第二の法則はこのような疑問を先取っている。第二の法則は、サイードの『晩年のスタイル』からだが、巽氏は〝self-imposed exile〟「自主的に亡命すること」という箇所も含めて引用している。一見するとこれは、第二の法則の単なる言い換えのようである。しかしサイードにおいて「亡命者(エグザイル)」となることは、ホームを喪失することで複数性のヴィジョンと対位法的意識を獲得することであり、それこそがサイードの求める人文学者のスタンスである。巽氏が「最終講義という限界状況からしか芽生えない新しい研究もありうるだろう」と述べるように、『慶應義塾とアメリカ』は巽氏が慶應義塾を退職して「亡命者(エグザイル)」となることの「最初の種子」なのだ。その意味で本書は、巽氏の「晩年のスタイル」、いや――サイードに肖るならば――「始まりの現象」なのである。(かさね・ゆい=カリフォルニア大学サンディエゴ校文学部博士候補生)★たつみ・たかゆき=慶應義塾大学名誉教授・慶應義塾ニューヨーク学院長・アメリカ文学思想史。著書に『ニュー・アメリカニズム』(福沢賞)『リンカーンの世紀』『モダニズムの惑星』『メタファーはなぜ殺される』『盗まれた廃墟』など。