〈手段〉としての哲学研究は何を〈目標〉とするのか 江川隆男 / 立教大学教授・哲学 週刊読書人2022年12月9日号 ドゥルーズ 思考の生態学 著 者:堀千晶 出版社:月曜社 ISBN13:978-4-86503-155-3 本書は、著者の博士論文をもとに、書籍として成立した六〇〇頁を超える大著である。本書のタイトル「思考の生態学」は、〈思考の動物行動学〉とも言い換えられるであろう。もちろんそれは自然のうちに内在する限りでの〈人間―動物〉の思考生態学であり、ドゥルーズの哲学のなかからこうした意味での動物思考学に相応しい主題として選択されたのは本書ではとりわけ〈出来事〉と〈生成変化〉である。近年、ドゥルーズ哲学の研究はきわめて活発であり、その成果としての博士論文や研究書も、数多く出版されている。すぐに気づくことであるが、本書の諸テーマは、たしかにドゥルーズ哲学の研究テーマとして多くの論者によってすでに考察され探究されてきたものである。しかし、著者は、むしろこうしたテーマのうちにこそ、別の斜線や曲線を描きすことにその意義を見出そうとしている。 それゆえ本書の特徴は、まさにその書法にある。あえて言うと、人間の思考そのものにのみ可能な出来事や生成変化の概念をドゥルーズ(あるいはガタリを含む)の哲学全般から引き出し、つまり特定の著作に拘ることなく、こうした主題を多様な角度から縦横無尽に切り込む仕方で、それらすべてを出来事の水準で成立させた著作であると言える。ドゥルーズ哲学を言わば一貫してテクストの出来事性として織り上げること、これが本書の書法作用である。 出来事について簡単に言及しておきたい。著者は、出来事の三つの相を提示する――(1)中立的で潜勢態としての不定法の出来事A、(2)これを活用=屈折させた出来事B、(3)非身体的な宇宙際そのものを形成する出来事「/」。とくにこの「/」では、例えば、〈光/闇〉は、対立するものの関係――矛盾あるいは対言――ではなく、とりわけ闇が光の欠如として理解されることなく、光とは別の或る積極的なもの、つまり〈非―光〉として理解されることになる。言い換えると、闇は、むしろ〈非―光〉を下位から支持する多様な出来事として捉えられ、それゆえ〈光/闇〉の間にあるのは、単なる対立ではなく、劣位に置かれたものが何を真に下位から支持しているのかという問題意識を穿つものとなるのだ。これは、端的に言えば、出来事の相が有する対象性のアスペクトである。どの出来事Bも、出来事の世界に「/」の差異を刻みつつ、また出来事Aはそれらに対してつねに同じものとして反復され、さらに出来事Aと出来事Bは「/」においてそのように配分されるのである。稲妻のような「/」は、〈暗闇/光〉との間を単なる対立的な理解ではなく、それ自体が「副次矛盾」(著者の訳語による)の言表として、つまり差異の多様な様態を刻み込むような、亀裂、齟齬、分裂、等々として捉えられる。出来事論は、身体という一つの〈触発―多様体〉とともに観念の唯物論(スピノザ主義)を準備することになるであろう。 著者は、次のように述べている――「(‥‥)本書の企画はきわめて慎み深いものである。というのもその主題は、ドゥルーズ思想における「出来事」と「生成変化」の概念をめぐって、その論理と政治的射程を探求するという論点のみに叙述が限定されるからだ」(二一頁)。本書の構成は「第Ⅰ部 出来事の論理」、「第Ⅱ部 生成変化の時間」、「第Ⅲ部 ノマドの政治」からなる。これらの問題が、これまで気づかれていなかった視点から、新たな書法と光のもとでまた新たな闇とともに論究されている。この意味において本書には、過去の蓄積された思考のイメージが最大限に発揮されていると同時に、ドゥルーズ哲学についての別の研究様式やその表現へと踏み出す意義を有する言説が至るところに含まれている。これまでのドゥルーズ哲学の研究の諸成果が著者のうちで十分に理解され、また活用可能となり、それゆえ既存のテーマやそれらに関する言説につねに非物体的な変形がともなっている。 哲学には批判がなければならないが、しかし批判とは否定や非難に存しないのは自明な事柄である。哲学における批判とは、今や単にその対象の特異性研究にとどまるのではなく、そこからより一般的な新たな問題を形成することにあり、それこそがまさに現代の哲学がなすべき事柄であるように思われる。ここで言う一般性は、誤解を畏れずに言えば、哲学の〈前―哲学化〉であり、そのためには、そこでの問題構成が解放された読者をその都度発生させなければならない。本書は、そうした読者をそのように生成させる力がある。「本書には中心点がない」、と著者は言う。或る部分では注釈的記述が、また別の部分では批評的記載が、さらに別のところでは分析的で総合的な論述が展開されている。このようにして、この著作は、多くの邦訳書を出版している著者ならではの、比較的読みやすい文章によって一貫して書かれている。読者は、こうした一方で中心のないテクストの間を様々な仕方でくぐり抜けることになるが、しかし他方でこの多孔質なテクストのなかにまさに〈脱―中心化〉の運動を、つまり著者が言う「たったひとつのこと」を本書の問題として見出さなければならないであろう。その哲学における決定的なテクストは、どの部分にあるのか。そのような問いとともに本書は成立しており、そこではドゥルーズの哲学が〈出来事―生成変化〉論のもとでより総合的に論じられている。 最後に、これまでにないようなアレンジメントによって成立した本書のテクスト性をさらに引き延ばす仕方で次のように言えるだろう。ドゥルーズ研究は今や別の水準に移行する時期にあるのではないか。あるいは評者は、一般的に哲学の研究の仕方そのものが本質的に変化するべき時を迎えているのではないか、とつねづね思っている。哲学研究は、哲学の〈目的〉ではなく、それゆえ「今日、哲学とは何であるのか」(フーコー)を〈目標〉(つまりけっして〈目的〉ではなく)とした〈手段〉でなければならないであろう。(えがわ・たかお=立教大学教授・哲学) ★ほり・ちあき=仏文学者。共著に『ドゥルーズ キーワード89』など。一九八一年生。