関係性の〝適度・ほどほど〟の正体を見抜く視線 依田那美紀 / 『生活の批評誌』編集・文章執筆 週刊読書人2022年12月16日号 発達障がいを生きない。 〝ちょっと変わった〟学生とせんせい、一つ屋根の下に暮らして 著 者:Aju・永浜明子 出版社:ミネルヴァ書房 ISBN13:978-4-623-09252-9 「依存は悪」だと刷り込まれたのはいつからか。寄りかかりすぎず、ほどほどに、適度な距離感こそが望ましい。そんな感覚は恋人、友達、あらゆる関係を紡ぐ場面に浸透している。対人援助に従事するとなればなおさらだ。クライエントと境界線を引き、自身の職務に課せられた役割の範囲に徹し、それを決して逸脱しないことが良しとされる。 本書の著者のAju(あじゅ)と永浜明子は、大学の学生と教員として出会った。Ajuは在学中に、発達障がい、アスペルガー症候群との診断を受ける。永浜はAjuに自身の研究室を開放し、感覚過敏等の特性ゆえに授業を受けることがままならないAjuの修学環境の整備に奔走する。さらには自宅の離れにAjuを住まわせ、父母を巻き込んだ共同生活を始め、Ajuの様々な日常の困りごとの軽減に昼夜問わず尽力する。出会いから十二年経った今も、画家として活躍するAjuと共に暮らし、日々対話と試行錯誤を積み重ねている。 どうしてここまで。読みながらつい唸ってしまう。「依存は悪」、そう思い込まされた身としては、他校に転任した永浜へ毎晩電話をかけ悩みや不安を吐露していたというAjuの記述に不安を覚えてしまう。実際、奔走する最中の永浜は、周囲から何度も「一生、面倒を見続けるつもりですか?」と問われたという。永浜は「あなたに同じことをして下さいと頼んでいるわけでもないのに」そのように「私に問う方が無頓着で、無責任」と憤る(本書の長積仁による寄稿より)。 永浜にとってAjuは、親子でも親類でもなく、たまたま目の前に現れた生徒の一人だ。そんなたまたま出会った相手を、徹底的に想い、己の人生を賭けて共にあろうとする姿が、周囲を、読み手の私を、戸惑わせる。それは先の思い込みの根深さの証左であろう。と同時に、永浜は本書で、障がいを「個性」と言い換え、「個性を認めよう」いう呼び声によってなされる「障がい者理解促進」のアプローチに疑問を投げかける。「障がい=個性」としてその場限りで相手を「認めた」としても、そこで思考停止する限り、当事者が抱える日々の細やかな困難をつぶさに見、それに対して無頓着な社会を問い、改善へと働きかけること、いわば能動的な関わり合いへと繫がりはしない。むしろ障がいを口触りのよい「個性」へとすり替えることで満足し、相手や、相手を取り巻く環境から一歩距離を取り、無関心でいることができてしまう。 永浜はAjuとの対話や働きかけに力を尽くす理由を、Ajuの生きづらさの軽減以前に、あくまで共に円滑な日常生活を送る上で不可欠だからしている、と述べる。しかし、その働きかけによって、Ajuが安心して学び、働き、暮らす、まさしく人権が保障されていることは疑い得ない。だとするならば、目の前の人がその人自身として生きるという、当然の権利を達成されるために不可欠な行為を、どうして周囲が「やりすぎ」と断罪してしまえるだろうか。永浜に対して「どうしてここまで」と問う時、そこで暗黙に設定される「ほどほど」で「適度」な距離感それ自体が、マジョリティ基準であり、誰かをふるい落としていないか。 本書は、二人の十二年間の道のりと、彼らが対話を通して見出した「Ajuとは一体どういう人間か」が、Aju→永浜の順に両者それぞれの視点から語られる。対話を重ね、ぶつかりながら互いを理解し、特性と付き合う術を共に一から切り拓いてきた二人の蓄積の厚さにはただ圧倒される。だが読後残るのは、「私にはこうはできない」という諦念ではなかった。本書の巻末三〇ページ以上は、二人の周囲の協力者や味方一人ひとりの紹介に費やされている。永浜とAjuの共同研究は、周囲に波及し、Ajuをありのままのひとりの人間として見る人を増やし、「小さな・優しい社会」を形成しつつあるのだ。たとえ二人のような関係を築けなくとも、その社会の一部を担うことはできる。 「依存は悪」と決めつけ、互いがなくてはならない存在になることを恐れるのではない。二者が徹底的に相対し、互いを必要とし尽くすことで、むしろ二人が外へと開いていく、そんな地平があることを、本書は見せている。(いだ・なみき=『生活の批評誌』編集・文章執筆)★ながはま・あきこ=立命館大学准教授・インクルーシブ体育。著書に『「間」に生起する自閉症スペクトラム』、共著に『茨城県版障害児のための専門職者の協力体制モデルの開発』など。★Aju=アーティスト。