日本文学を渉猟する現代の東方見聞録 山﨑修平 / 詩人・作家・文芸評論家 週刊読書人2022年12月16日号 女を書けない文豪(オトコ)たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学 著 者:イザベラ・ディオニシオ 出版社:KADOKAWA ISBN13:978-4-04-112203-7 日本文学への作者の愛がたっぷりと詰まった一冊である。 作者は、修士課程で日本文学を修めたのち、イタリア語・英語の翻訳者として活躍しているとのことである。「はじめに」に、「一〇〇〇年以上も前、私が生まれ育ったイタリアから一万キロほど離れた日本という国に、自由自在に自らの感情を表現できる女性がいたと知り、ただただ驚いた」とあるように、日本文学との奇蹟的な出会いが作者を突き動かしているのだろう。文章の端々から肩を揺さぶられるような「偏愛」を感じさせる。日本文学を渉猟するさまは、さながら現代の東方見聞録といった趣すらある。 軽妙洒脱な語り口は読みやすい。けれども決して一筋縄ではいかない。評者は、本書を読み終えて、クラクラと眩暈のする思いである。この眩暈の発するところは、どこにあるだろう。章ごとに読み解いていこう。 森鷗外の『舞姫』を扱う章では、森鷗外作品に繰り返し提示される「元カノ」に焦点を当てている。作者とテクストは分けて考える。文学研究において一つの方法論であるが、本書は当然それを踏まえた上で、執念ともいうべき研究心はゴシップを読み解くことでは終わらない。森鷗外や家族の手記などから、森鷗外における「元カノ」が作品にどのような影響を与え、配置されているかを分析しているのだ。 徳冨蘆花の『不如帰』を扱う章では、マザーコンプレックス、つまりマザコンという批評軸を打ち立てて論じている。『不如帰』を「日本における封建主義的家族制度と関連付けて論じられることが多い」とした上で、「母親の息子に対する独占欲、若くて可愛いライバルに対する計り知れない嫉妬という、もっと普遍的で、もっと原始的な心理も働いている」と論じたのは、新しい読みの可能性を提示したと言えるだろう。 田山花袋の『蒲団』を扱う章での、「田山花袋の変態チックな暴露文学というパラディグマも、きちんと考え抜いた結果であり、極めて真面目な発想の下に展開された」という箇所は膝を打った。とかく女弟子へのセンセーショナルな事象にこそ注目を集めるが、そうではなく、作家がこのようなセンセーショナルなことを書いた、あるいは書かなければならなかったことにこそ、論じられるべき要素があるということは、言うまでもないことである。 本書はこのように、近代文学の作家と作品をこれまでとは異なる鑑賞方法で炙り出してゆく。夏目漱石『こころ』では、「先生」というポジションに注目をして恋心を分析し、谷崎潤一郎『痴人の愛』では、語り手の操作によって構築されてゆく女性像に迫り、太宰治『ヴィヨンの妻』では、女性像を明示しながら隠された男性重視主義を論じ、遠藤周作『わたしが・棄てた・女』では、「納得のいかないストーリー」と困惑しながらも、その困惑を丁寧に論じ、尾崎紅葉『金色夜叉』では、尾崎紅葉が作中のエピソードに盛り込む「サービス精神」が作品を高めているとし、菊池寛『真珠夫人』では、旧態依然とした女性像から一歩歩み始めた女性の登場と論じ、江戸川乱歩『人でなしの恋』では、怖い愛、愛の怖さを論じている。 近代文学における女性は、確かに男性=文豪にとって都合の良い登場人物であった点は否めない。女性に「女性」という役割を担わせてきた社会については、改めて論点として考えていかなければならないことであるだろう。しかしながら、近代文学における男性=文豪の個人を、現代の社会規範やコンセンサスによって解くことには注意深くならなければならない。明治維新後、西洋からの圧倒的な情報の流入後、文学作品を残すということはどういうことであるか、往時の作家たちは煩悶し、苦心の末にたどり着いた一つの答えとして、自我を書き残すことによって提示した作家もいたのではなかったか。 本書は決して文豪を弾劾しているわけでも、文豪ゴシップに塗れているのでもない。近代作家の生き様が、テクストにどのように反映されているのか、真摯に紐解いたのである。(やまざき・しゅうへい=詩人・作家・文芸評論家)★イザベラ・ディオニシオ=イタリア生まれ。二〇〇五年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、日本でイタリア語・英語翻訳者および翻訳プロジェクトマネージャーとして活動。