重厚な読書経験すらも味わえる一書 野村恭史 / 北海道大学助教・哲学 週刊読書人2022年12月16日号 入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 著 者:大谷弘 出版社:筑摩書房 ISBN13:978-4-480-01757-4 孤高の哲学者ウィトゲンシュタインの第一の主著『論理哲学論考』(以下『論考』と略記)といえば、気軽に読めない本の代表といえるかもしれない。そんな古典的で難解な哲学書の「入門講義」を書くという仕事、そこにはさまざまな困難と気苦労と気遣いがあったにちがいなく、まずは本書の著者に「ごくろうさま」と声をかけたくなる。とはいえその筆致は軽快で、すこぶる楽し気に講義を進めてゆくその姿は、いかにも好ましい。 入門書にもとめられる第一のこと、それはその読者が、対象となっている哲学書に一歩でも近づけるその道筋を示すことだろう。疎遠だった哲学書に親近感をもって接することができるような切り口を示せれば、入門書の使命はほぼ果たせたといえる。この意味では本書は、十分にその使命を果たすことができるだろう。 本書の第一の特徴は、その「講義」の進め方である。その進展のなかであらわれた諸問題を、そのつど問題として登録しておき、終わり近く(第一〇講)でそのすべてに回答する、という仕方で講義が進められる。読者は、指摘された問題がどのように解決されるかを気にしながら本書を読み進めることになるので、推理小説でも読むようなおもしろみを感じることもできるだろう。 第二の特徴は、本書が、近年の『論考』解釈の焦点の一つともなったいわゆる「決然とした解釈」を主題的にあつかったおそらくははじめての日本語の入門書だということ。この解釈は、『論考』の大部分をたんなるナンセンスとみなすという大胆極まりないものだが(たとえば同様の解釈がカント『純粋理性批判』についてなされることがあると考えられるだろうか?)、本書は冷静にこの解釈の問題点を指摘し、それを退けている(二六八―二六九頁)。 第三の特徴は、著者が、本書のところどころに「質疑応答」というコーナーを挟んで、初学者から出そうな素朴な質問に真摯に答えたり、抽象的な理論的言説の説明のために、身近でわかりやすい例をいくつも出したりして(それはたとえば、著者の勤務校周辺の地図だったり〔七四頁以降〕、相模原障害者殺傷事件だったりする〔二四二頁以降〕)、終始読者の興味を切らさない努力をしているという点。入門書としては常套的な手段だが、それが随所でその効果を発揮している。 以上、本書の入門書としての諸特徴を挙げてきたが、本書はまた『論考』の或る読みを提示してもいる。著者はそれを「中間的解釈」とよび、「形而上学的解釈」と「決然とした解釈」のあいだを行くものと想定している(五〇頁、六八頁、一三二頁、二七〇頁)。これがなかなかに野心的で、問題含みの解釈になっていておもしろい。 この「中間的解釈」とは、ようするに、大まかにいって、日常言語の(事実言明的な諸命題のみからなる)或る部分言語をフィクスして、それが『論考』の意味で適切に「分析」された言語たりうるように、逆に『論考』の体系からそのいくつかの(当の部分言語によっては実現できそうにない)要請を除去していくような解釈だとみなせると思われたのだが、どうだろうか。除去されるのは、①「名」の意味は(論理的に)単純な必然的存在者だという要請であり(『論考』二・〇二、二・〇二四)、②「要素命題」は論理的に相互独立であるという要請であり(同書五・一五二、二・〇六一、四・二一一等)、③日常言語の「完全な分析が一つかつただ一つ存在する」という要請である(同書三・二五)。 これらの(いうまでもなく『論考』の重要な一部である)要請を考慮に入れない(あるいは③に至っては端的に否定してしまう)ことによって(二八七―二九六頁)、日常言語の(事実言明的な諸命題のみからなる)部分言語が、ほぼそのままで、『論考』の意味で適切に「分析」された言語でありうるとみなす、というなかなかの荒業?をやっているのではないかと思われる。 一方では、これはそもそも『論考』の解釈ではなく、『論考』の或る部分系の解釈でしかないと批判されもしようが、他方では、『論考』(の部分系でしかないとしてもそれ)をわれわれにいっそう身近なものたらしめようという意志のあらわれともみなせる。評者はこの読みに賛同するものではないが、これはこれで興味深い試みだと評価されてしかるべきだろう(なにせ『論考』のほぼすべてがたんなるナンセンスだと主張する解釈もあるくらいなのだから)。 ともあれ入門書としての本書は、一度『論考』にチャレンジして、とはいえうまくそれに取り付くことのできなかったすべての人々にとってたいへん有益なガイドとなるだろう。本書に導かれつつ、同時に自分の頭で考えながら、ゆっくりと『論考』のページをめくるという、楽しく贅沢だが根気のいる時間を、一人でも多くの読書人に経験していただきたい。(のむら・やすし=北海道大学助教・哲学)★おおたに・ひろし=東京女子大学准教授・西洋哲学。著書に『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』など。一九七九年生。