脅威の実感により描ききった人間模様 小菅正夫 / 元旭山動物園長、北海道大学客員教授 週刊読書人2023年1月6日号 清浄島 著 者:河﨑秋子 出版社:双葉社 ISBN13:978-4-575-24570-7 学生時代、礼文島のエキノコックス調査を取り仕切った教授の授業を受け、礼文島の悲劇は十分に知っていた。そして、一九六五年に根室で感染が報告され、徐々に感染が全道へ拡がりつつあることは旭川医大の寄生虫学教室で教わっていた。このことを多くの人に伝えようと一九八五年春の旭山動物園企画展のテーマは「エキノコックス」とした。ハムスターに感染した幼虫の実物標本まで借りて展示し、危機感を持って貰おうとした。 一九九三年六月、旭山動物園のローランドゴリラが、大痙攣を起こして倒れた。脳外科医と共に脳腫瘍と診断し、治療を継続していたが、九四年七月一九日大発作を起こして死亡した。病理解剖の結果、エキノコックス幼虫が、肝、肺、腎そして脳とあらゆる臓器で見つかり、八月二四日に北大獣医学部から北海道のエキノコックス(多包虫)症であるとの診断が届けられた。 ただちに、内容を整理し旭川市としての対策を決定、記者会見を開いて事実を公表し、対策を実施するために八月二七日から閉園することを発表した。会場では、旭山動物園の医療体制に問題があるとか、死亡してから一ヶ月以上も経つのに何を隠そうとしているのかなど、マスコミ陣の無知からくる攻撃に曝され続けた。エキノコックスは感染してから発症するまで約十年もの潜伏期間があることを認めようとしないのだ。ある記者が私に「もう二度と動物園には行かない。信じていたのに」と言ってきた。そして翌日の新聞には「飲料水が原因か?」との大きな見出しが踊り、パニックは全国に拡がってしまった。 このような経験を持つ評者が、本書を読み進めると、当時の悔しさが蘇り、さらに礼文島の人々の苦しみが想像を絶するものであったことを思い知らされた。本書には、道立衛生研究所から派遣された研究員、共に苦労する役場職員そして村議会議員を中心に島民の思いや感情、対立がきめ細かく記述されていた。当時〝腹が膨れて死に到る〟病が寄生虫の感染によるものだと考えているのは、関わりを持った医師と研究者だけで、誰もその原因が分からず、マスコミも科学的知見のないまま、ただ礼文島の奇病というレッテルを貼って、島民を苦しめていたことに気付いていない。本書の著者河﨑秋子氏は、北海道別海町で羊を飼いながら小説を執筆してきたという。まさに道東のエキノコックス汚染地で動物と土に根差して生きてきた著者ならばこそ取り組み得たテーマであり、誰よりもエキノコックスの脅威を実感しているからこそ描ききれた人間模様なのだと思う。 エキノコックスの成虫は四mm程度の小さな条虫で、キツネの小腸に寄生している。虫卵は糞と共に排出され、野原にばらまかれてネズミに食べられ、その体内で大きな幼虫となり、キツネがそのネズミを食べると幼虫の中に無数に出来た原頭節が、小腸に達して成虫となり、また虫卵をばら撒き続ける、これを最短三ヶ月で繰り返すという生物的には優れた繁殖システム(生活環)を持っている。 この寄生虫を完全に排除するには、エキノコックスの生活環をどこかで断ち切るしかない。中間宿主であるネズミを島内から完全に駆除することは不可能なので、終宿主である島内のキツネや犬、猫を全て殺処分するしか方法はない。それを実行することが容易でないことは読者も解るだろう。しかも島民に強制することはできない。あくまでも対策を理解して共に暮らしている犬猫を供出するように説得しなければならない。しかも礼文島の奇病の原因がエキノコックスであることが証明されていない時点で、研究員らは実行した。その軋轢を読者は想像出来るだろうか。本書ではそれをやり遂げた彼らの苦悩と葛藤を島民のやり場のない悔しさ無念さと共に描いている。 この対策は礼文島だからこそ可能であった。そして三〇年以上にわたる汚染地区指定が、一九七〇年八月になって、ようやく解除され、島民悲願の清浄地宣言がなされた。本書を手に取る時、『清浄島』という書名から、この内容を想像出来た人はいないだろう。これが本書のタイトルの由縁である。一方、同じ対策を道東で実施することは出来ず、一九九三年には北海道全域が対策地域とされた。つまり、全道の中で唯一、礼文島はエキノコックス・フリーの地となったのだ。 この清浄地宣言を願った島民の気持ちはよく解る。旭山動物園が対策を終了し一九九五年に再開園する際、私は記者会見で「道内で最も安全な地は、旭山動物園です」と話した。さらに、これまで飼育していなかったキタキツネを展示し、エキノコックスの生活環を解説、対策も掲示した。すでに成虫には有効な駆虫薬「プラジカンテル」が開発されていて、月に一度服用させるだけで、確実に駆虫ができ、虫卵汚染が防げるようになっていたからだ。北海道では、住民自身がエキノコックスを知り、感染を防ぐために生水は飲まない、地面に落としたものは口にしない、山菜は熱を通してから食べる、野犬やキツネを触らない、など虫卵が口に入ることを徹底して防ぐことを指導して、感染に対する意識を高めることに全力を挙げている。 そして現在、エキノコックスは、青森、埼玉で発見され、厚生労働省は愛知県知多半島で、あの無限の生活環ができあがっていると発表した。エキノコックスが自分で移動できるはずもなく、その移動には人間が関わっていると考えるのが自然だ。そもそも、礼文島のエキノコックスも一九二四年からの三年間に、千島列島の新知島(しむしるとう)から野ネズミの駆除と毛皮生産のために人間が連れてきたのが起源である。そのキツネにエキノコックスが寄生していて、将来島民を苦しめることになるなど、誰も想像できなかったはずだ。 評者は、エキノコックスが日本全土に拡がってしまう可能性はあると考えている。二〇〇一年十一月までの間に一都一道二府一七県から感染者が報告されている。エキノコックス感染から自身を守るために、基本的な対策を遵守し、犬や猫が野外で野ネズミを口にする機会をなくすことを徹底して貰いたい。それだけで、本人が知らないうちに感染してしまう可能性はずいぶん低くなると思う。そして自分の暮らす地域にエキノコックスが侵入してしまったらどうなるか、本書を通じて学んで貰いたい。(こすげ・まさお=元旭山動物園長、北海道大学客員教授)★かわさき・あきこ=作家。北海道別海町生れ。著書に『颶風の王』(三浦綾子文学賞、JRA賞馬事文化賞)『肉弾』(大藪春彦賞)『土に贖う』(新田次郎文学賞)など。一九七九年生。