人生を変えるだけの衝撃を体感するために 泉谷瞬 / 近畿大学講師・日本近現代文学 週刊読書人2023年1月6日号 卒業論文マニュアル 日本近現代文学編 著 者:斎藤理生・松本和也・水川敬章・山田夏樹(編) 出版社:ひつじ書房 ISBN13:978-4-8234-1146-5 誰もが必要だと思いながらも、自分で制作するとなれば、なかなか取り掛かることができない――どのような業界においても、「マニュアル」とはそうしたタイプの文章と見なされているのではないか。しかも、誰にでも活用できるものに仕上げなければならない以上、その文章からは極力、書き手の個性や特徴、遊び心を排するという自制心が求められる。いわば、マニュアル制作の機械になりきる(・・・・・・・)ことが重要なのである。マニュアル執筆者が偉大である理由の大部分は、そこにある。まずはこのことを何度でも強調し、編者をはじめとした著者の方々に敬意を表したい。 本書の構成に目を向けよう。準備編・構想編・執筆編の各編に三章ずつ配置され、分析対象の見つけ方から問いの設定、考察のポイントに至るまで、とにかく「コツ」が様々な具体例と共に凝縮されている。そのなかでも、一つの作品論を書き上げるまでの道のりとして、芥川龍之介「あばばばば」が中心的に扱われている。こうした表現は功利的に過ぎるかもしれないが、芥川は作家としての知名度はもちろん言うまでもなく、先行研究も豊富である。さらに、その短編小説の多くが計算された構造を見せるため、作品論の分析を行うにあたってはうってつけの作家と呼べるだろう。また、文章の推敲法や、文献調査に役立つ資料・サイトといった情報も網羅されているので、アカデミック・ライティングの復習としても十分役立つ内容となっている。アラカルトという形で最後に掲げられた箇所では、「卒論体験談」や作品論以外の研究法、文学理論への招待、隣接領域との関係もトピックごとに手堅くまとめられており、ここまで隙のない構成だと、逆に指導教員の存在意義が問われるかもしれない。 本書を通読して印象に残ったのは、一切油断することなく、徹底的に「マニュアル」であろうと努めている点だ。これは、決して否定的な意味で述べているのではない。私だけでないことを信じたいが、卒論の指導をしていると、どうしても担当教員の個人的な精神論に近い発言を漏らしてしまう瞬間がある。あるいは、それを「こだわり」と言い換えてもよいだろう。「こだわり」を学生に強制しない限り、このこと自体は悪いものではないように思うし、むしろ対面授業の醍醐味はそういった余剰物にも含まれている。だが、やはりそれは「マニュアル」にはならない。そのことを本書の著者たちは熟知している。押しつけがましい精神論を唱えるのではなく、即物的な姿勢を順守する方が、かえってその精神の効力は発揮されやすい。だからこそ、「卒論は、単に卒業資格を得るためだけに書くものではありません」という最終頁に添えられた一言は本書全体に重く響き渡っている。 もちろん、そんな精神性など脇に置いて、できるだけ効率的にゴールへたどり着きたい、という学生にも本書は有効である。〝今時〟の学生は忙しすぎるため、そのような意味でも待望のマニュアルが登場したと言えよう。 ちなみに本稿筆者の卒論は、遠藤周作『深い河』の作品論である。筆者をよく知る人にこのことを言うとほぼ確実に仰天されるが、現在のスタイルとのギャップは、研究の世界ではそう珍しくない。卒論を完成させる経験とは、それだけ書き手を大きく変える力を持つ。本書で使われている言葉を借りるならば、まさしく「新しい景色が見えてくる」のである。本書を片手に卒論と向き合うことで、できるだけ多くの学生に人生を変えるだけの衝撃を体感してほしい。(いずたに・しゅん=近畿大学講師・日本近現代文学) ★さいとう・まさお=大阪大学教授。 ★まつもと・かつや=神奈川大学教授。 ★みずかわ・ひろふみ=神奈川大学准教授。 ★やまだ・なつき=昭和女子大学専任講師。