世紀を跨ぐ、著者による「思考する実存」の旅の記録 鈴木規夫 / 愛知大学教授・政治哲学・イスラーム研究 週刊読書人2023年1月6日号 公共宗教論から謎めいた他者論へ 著 者:磯前順一 出版社:春秋社 ISBN13:978-4-393-29953-1 本書の帯には「〈神仏のまなざし〉を取りもどどせ! 今こそ、〈他者性の宗教学〉へ。」とある。もっとも、そうした言の葉を睥睨してしまうほど印象的な「暴悪大笑面」(加藤乃芙子画)に、読者はまず凝視される。いずれにしても、著者と読者との間に介入する第一の他者たる編集者の意図がそこには熱く表出している。「磯前話法」とも言うべき著者独特の語り口は、それをさらに上まわる逸出した文体を作り出し、世紀を跨いで展開してきた〈個〉と〈宗教〉と〈天皇制〉の概念と身体性そのものをめぐる著者による「思考する実存」の旅の記録が、すなわち本書である。 その主題は、やや長めの序章に詳しく示されている。「そもそも、ポストコロニアル研究にかぎらず、近代における非西洋的な知は、一見土俗的に見える神道概念のようなものでさえも、西洋的な知の枠組みの内部から、その拮抗関係をふまえて語り直され」「近代西洋的な知の枠組みの外部に出ることができないという認識を受け入れたところから、その語りの可能性もまた生じてくる」(五二頁)という著者の試みは、存在被拘束性を如何に破りうるのか、といった古くて新しい問いも惹起させる。 かつての知者たちは、「そう、我らはただ舞うのです」という風に「近代西洋的な知」を煙に巻いて済ませてきたのだが、二一世紀のわたしたちはすでにそれではすまない。著者はそのことに、より自覚的だという点においても学問に誠実である。かつて阿部美哉は、世俗化概念の実態は冷戦構造にあるのだと喝破したことがあるが、あらかじめ歴史学で鍛錬した著者は、滅びゆく世界の終わりの今を「謎めいた他者論」により映し出そうとする。 言うまでもなく、〈宗教〉も〈天皇制〉も、そしてその他諸々の「思考する実存」を成り立たせている主な言の葉の数々は「翻訳語」である。二一世紀日本におけるわたしたちの思考は、そもそもそれ自体が「翻訳」の上に浮遊しているに過ぎず、危うい。その危うさは「自分は何者なのか」という素朴な問いすら、自ずと不安定にさせる。近代知のオリエンタリスト的戦略の中で、〈宗教〉がキリスト教性を特異に意味するreligionの翻訳語として日本および中国などの同文圏の近代知に紛れ込まされ、さまざまな信仰体系への統語的機能を偽装してきたことを、かつて明らかにしてきた著者は、〈宗教〉に代替される言葉の創出に懊悩しているかのように見える。それはまた〈哲学〉も然りである。「我らは真に考えているのであろうか」――かつてCan Asians Think? と問うたキショール・マフバーニーが、今やリベラルな国際秩序に抗して中国に与するのはもっともなことであるが、すでにデリダが非西洋世界にphilosophyはないと素直に表明して翻訳語である〈哲学〉の実相を晒してしまっているように、わたしたちの〈哲学〉も危うい。 また、それらとまさしく対照的な翻訳語が〈天皇制〉なのかもしれない。コミンテルンのテーゼにあったmonarchy が翻訳変換される過程で「天皇制」と意訳造語され、コミンテルンとは無関係な人々の思考にも、日本の政治社会の性格を表現するものとして然るべく作用するようなったこの翻訳語は、おそらく近代日本国家のデザインを担った伊藤博文などが西洋の君主制統治体系に似せ擬制させつつ、「万世一系」など神話作用も巧みに組み込んだものとの二重に翻訳された結果としてあるのだが、あたかも古来の「日本精神」が現前するかのような特殊性と個別性がそこに付加構築されている。この皮肉な現況をどう考えればよいのか。 「天皇制とは近代日本社会が創出した、この謎めいた他者の声を聴くための、国民化という主体化装置」(一三一頁)であるという著者は、そうした日本の翻訳語の現況において「死者のざわめき」の掻き消されてしまうことを怪しむ。東北大学実践宗教学寄附講座の創設に尽力した岡部健医師が「心理」という言葉を好んでいなかった(一六七頁)ことにも著者は着目する。そこでふと、岡部医師のこだわりも著者のこだわりも、〈中間世界〉を崩壊させた近代社会が彷徨う霊の回収場所を排除したことに忸怩たるものを感じているのではないか、と読者は気づくのである。これを著者は「内部でも外部でもないと同時に、内部でもあり外部でもある「外部性」という余白」という本書の立場(一一頁)の在り処に手繰り寄せる。 そもそもこの世に「意味」を与える世界である〈中間世界〉をめぐる議論は、神秘主義的諸潮流をはじめさまざまにあるが(評者はアンリ・コルバンの「想像的世界」(ムンドゥス・イマギナリス)やその源泉ともなるスフラワルティーの〈中間世界〉概念を想定しているのだが)、ラカンへ到る過程においても、それらはもう少し再考されてよいだろう。「近代の制度化された学問ではこうした感情の問題は極力排除されてきた。しかし、ドゥルーズがスピノザに倣って「情動」と呼び、ラカンがフロイトに想を得て「想像界」と名づけたように、主体論にとって感情や情動の問題は現実には無視することはできない」(二〇八頁)という著者に寄り添いながら、哀しみも喜びも引き取られうる言説の構築のために、さらに過去へ遡ることもまた「学問」なのであろう。 最終章になぜ「村上春樹論」が配置されるのか、謎である。村上はその短い芥川論の中で、「洗練された文章技術の中に、人間的含蓄を忍ばせること、それが芥川の生き方であり、書き方であった。そして私小説やプロレタリア文学の拠って立つ文学的方法は、そのような生き方とは根本的に対立するものであった」としているのだが、上海で中共一全大会の開かれた場所でその設立メンバーである李漢俊と語り合っている芥川の姿と、それは妙にちぐはぐに映り、そのちぐはぐさは村上自身の時代感覚とのちぐはぐさであるようにも思えるのだが……。著者の次なる「石母田正論」において、それがいったいどのような変奏となるのか、愉しみに待ちたい。(すずき・のりお=愛知大学教授・政治哲学・イスラーム研究) ★いそまえ・じゅんいち=国際日本文化研究センター教授・宗教学・批判理論。著書に『昭和・平成精神史 「終わらない戦後」と「幸せな日本人」』など。一九六一年生。