儀礼権威体系からのアプローチ 神田裕理 / 日本中世史 週刊読書人2023年1月6日号 足利将軍家と御三家 吉良・石橋・渋川氏 著 者:谷口雄太 出版社:吉川弘文館 ISBN13:978-4-642-05959-6 歴史に詳しくない人でも、江戸時代の「徳川御三家」という言葉は耳にしたことがあるだろう。徳川一門筆頭たる尾張・紀伊・水戸の三家は、つとに知られている。実はこの「御三家」には、先行するモデルが存在した。それこそが、本書でとりあげられている、「足利御三家」なのである。 「足利御三家」とは、将軍家に連なる血統で、将軍家を支える三つの家(氏)の、吉良・石橋・渋川の三家を指す。彼らは将軍家に次ぐ地位を占めているにもかかわらず、これまで「幕府政治における役割は判然としない」と見過ごされ、時には「負け組」とまで言われていた。本書はかかる見方を一蹴し、御三家の実像解明に果敢に挑んでいる。 また著者は、政治権力体系からのみ説く室町幕府研究に批判的な立場をとり、儀礼権威体系からアプローチした「足利的秩序論」を提唱している。本書も、かかる視角から編み出された一冊として位置づけられる。 内容を紹介しよう。足利将軍家に次ぐ別格の地位を占めるにいたった吉良・石橋・渋川氏は、鎌倉時代より幕府(将軍・北条氏)とともに歩むようになり、観応の擾乱で争い合うなか、一三六〇年頃に室町幕府のもと再統合される。その後、六代将軍義教期にあたる永享年間(一四二八~四一年)頃、彼らには「御三家」という立場が与えられたのである。その背景には、五代将軍義勝の夭折(応永三十二年〈一四二五〉)・四代将軍義持の死去(応永三十五年)といった、足利氏の直系断絶の危機を迎えていたことにあった。彼ら御三家は、足利氏(将軍と御連枝〈兄弟〉)の「血のスペア」として家督継承者たらんことを期待されていたのである。 この期待は、次の言葉に如実に表れている。すなわち、「室町殿(足利)の御子孫絶えば吉良に継がせ、吉良も絶えば今川に継がせよ」である。これは戦国末期から語られていたというが、たんなるエピソードや創作の類いではない。実際、十六世紀の関東では吉良頼康の後継に遠江今川氏が入っていた。また東海でも、吉良義安の跡目を駿河今川氏が主張していたという。御三家は、まさに「血のスペア」としての役割を果たしていたのである。 このように儀礼制度上、足利に次ぐ地位を占め「血のスペア」の立場にあった御三家は、中央との関係ばかりでなく、地方にも影響力を持っていた。とくに吉良氏(関東吉良氏)は、武蔵国(東京都・神奈川県)の所領(世田谷領・蒔田領)を経済的基盤としつつ、河川(多摩川)や江戸湾をも通して伊勢・熊野地方ともつながりを持っていた。石橋氏も同様に、遠隔地所領の尾張国(愛知県)富田庄はじめ水陸交通の要衝である萱津(貝津。愛知県)を支配下におさめていたという。いずれも、御三家として足利氏に准ずる地位・権威を有していたからこそ、と捉えられる。 著者は、中世を実力(権力)と同時に、身分というものが強く意識される社会であったと説く。そして、儀礼や血統の存在も忘れることなく、権力・権威の両側面から中世のリアルな姿に迫っていくことの重要性を指摘している。私事で恐縮だが、戦国~織豊期の朝廷・公家社会を研究する評者にとって、これは示唆に富んだ指摘であった。 ただ、「ないものねだり」の観は強いが、御三家の「儀礼面」についての言及は少ない印象を持った。たとえば、数多くの幕府儀礼や行事の場で、御三家が主導・教導する動きがあったのか、などについてもふれていただきたかった。 また、吉良氏(京都吉良氏)は、江戸時代にいたり幕府儀礼を司る高家として再生を遂げた。これは、江戸幕府が室町幕府の儀礼制度や身分格式を色濃く受け継いだことによる。いっぽうで、戦国期につづく、織田期・豊臣期では、かつての「御三家」を「儀礼の家柄」としてとくに重用した様子は見られない。 かつ、「足利御三家」をモデルとした「御三家」を誕生させた様子もまた確認できないのである。室町幕府の儀礼は、いったん途絶えたように思われるが、なぜだろうか。織田期・豊臣期の「武家儀礼」のありようも含めて、さらに知りたいところである。(かんだ・ゆり=日本中世史)★たにぐち・ゆうた=青山学院大学准教授・日本中世史・中世東国史。著書に『分裂と統合で読む日本中世史』など。一九八四年生。