表現の背後にある事象への想像力を刺激する 鎌田東二 / 京都大学名誉教授・哲学・宗教学 週刊読書人2023年1月13日号 死者を巡る「想い」の歴史 著 者:山本幸司 出版社:岩波書店 ISBN13:978-4-00-061558-7 本書を一読して思った。観点が面白く、参考になる。どのような観点か。ポイントは、大きく四つある。 第一に、主に、和歌と日記を素材として、そこに表現された死者を巡る「想い」を考察した点。そこに、巻末の「補章」で、能楽の謡の分析が加わる。 第二に、和歌などに表現された死者を巡る「想い」を五つの観点から考察したこと。その五観点とは、①死者との別離の表現、②遺族(生者)の側の受け止めの表現、③死後世界の表現、④死者の思い出や「想い」の表現、⑤霊魂観や死生観の表現、である。これにより、考察の枠組み(門構え)がしっかりと構築され、論の安定感を生み出すことに成功している。 第三に、これらを踏まえて、さらに具体的に謡曲を分析して、立論に厚みと具体事例を添えている。 第四に、「記紀万葉の他界観」と題された三つのコラムが配置されているが、これが天上他界や黄泉国や鳥にフォーカシングされていて、三つの窓から覗き見た「記紀万葉」という最古の古典世界のよきガイドとも景観展示ともなっていて、展示風景を楽しめること。 本書はこのような特色を持っている。そして、目配りよく、広く古典の素材が博捜され、古典や和歌に関心を持つ人には大変示唆に富む内容になっている。 が、私のような変わり者には、そのバランスの効いた、オーソドックスな、とても落ち着いた門構えと考察に、時折不満が頭をもたげてくるのも否定できなかった。 たとえば、「動物の死に関わる歌は、極めて珍しい」(五三頁)と、古典には動物の死を悼む歌が少ないことが指摘されるが、それがいったいなぜなのか、知りたい。仮説や推測でいいから、その先の一言がほしかった。また、全体に悠揚迫らぬ筆致で大河が流れる如く叙述されていくのだが、物狂いや修羅を含む受苦・受難に溢れた謡曲の詞章の分析など、確かに全体にそつなく良くまとめられているかに見えるのだが、いっそう深く、その「受苦pathos passion」の中身を痛く抉ってほしかった。そんな、ないものねだりに駆られたのである。 とはいえ、本書を読みながら、改めて考えさせられたことがいくつかあった。 第一に、『万葉集』巻五・九〇四の山上憶良の長歌「男子、名は古日を恋ふる歌」にある、我が子を亡くした父親が「立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が飛ばしつ 世の中の道」という最後の部分。どうしてもよくわからない。これは原文では、「安我古登婆之都 世間之道」と記されていて、手にした我が子を投げ飛ばしてしまう(?)のが「世間の道」とされるのだが、なぜそれが「世間の道」(本書では「世の中の道」)なのかわからない。もちろん、愛息を喪った父親の嘆きの深さを激しく表現しているのだということはわかる。だがそのふるまいが「世間の道」だとは如何なる事態なのだろうか? 残念ながら、私には想像できないのである。 第二に、続けて叙述されている紀貫之『土佐日記』の亡くした娘を想う何首もの歌。『古今和歌集』の撰者として世に知られ第一級の評価もされてきた著名な歌人が、なぜ女性に身をやつしたふりをして『土佐日記』を記し、そしてその中でも娘を悼む哀傷に満ちた短歌を次々と詠ったのか?そしてそれをこのように、これでもかこれでもかと蜿蜒と叙述しているのか? その異様さがわからないのである。このあたりの紀貫之の悲嘆と表現(ある種の演出的表現)との間の確執と突き抜けをどう考えるのか、という問題である。 第三に、鎌倉幕府三代将軍源実朝の『金槐和歌集』七一七の、母を亡くした子が母を慕う歌。「いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる」 母を喪って探し求めている子供を見た時の実朝の悲哀。それはいったいどんな悲痛で悲惨な状況であったのか? さらに詳しく具体的に知りたい。 このように、本書を読みながら、随所で和歌や日記や謡曲の背後にある死生の「想い」や、その表現を生み出す具体的な事態を想起させられ、この世とあの世の長い旅をしたようなふしぎな気持に陥ったのである。(かまた・とうじ=京都大学名誉教授・哲学・宗教学)★やまもと・こうじ=静岡文化芸術大学名誉教授・日本中世法制史・思想史。著書に『天武の時代』『頼朝の精神史』『〈悪口〉という文化』『狡智の文化史』など。一九四六年生。