人類史規模での資本主義の批判的相対化 高橋順一 / 早稲田大学名誉教授・思想史 週刊読書人2023年1月13日号 カール・マルクス 未来のプロジェクトを読む 著 者:植村邦彦 出版社:新泉社 ISBN13:978-4-7877-2205-8 今われわれの社会は劣化と分裂の度合を深めつつある。だが代わりになるモデルは見つからない。今とは違う社会のあり方に向かって想像力や思考を働かせることが難しくなっているからである。それは、マルクス思想の死とともに社会的想像力や認識の基盤が破壊されてしまったせいである。だからこそ今マルクス思想の再生が強く求められるのである。そうしなければ私たちの社会は消滅しかねないのだ。 そうした意味で植村の新著はまことに時宜にかなっている。序章で植村が、人類学者スコットの「今ほど狩猟採集民が、その食生活、健康、余暇の視点から優秀さと見られたことはない」(一八頁)という言葉を踏まえ、「人類学や民族学は、人類が進化史上の長い間、支配従属関係を作らないように周到に配慮しながら、「分かち合い」を続けてきたことを明らかにしている。そのような知恵にも学びながら、「分かち合いによって生まれる対等な個人の集団」をどのように再構築することができるか、それがこれからの課題になるだろう」(同前)といった上で、これを、マルクス思想における「協同=アソシアシオン」につなげていく。マルクスの「アソシアシオン」が、狩猟採集社会を起点とする人類史の「進化」の歴史の見直しという課題に結びつくのである。異色の視点といえよう。 本書は「Ⅰ 労働・疎外・奴隷制」、「Ⅱ 未来社会の構想」、「Ⅲ 資本主義の「終わりの始まり」」、「Ⅳ マルクス思想のアクチアリティ」(全十二章)から構成されている。ⅠおよびⅡでは、資本主義の何を「不正」と見なすかに焦点を当てたマルクスの再解釈が、Ⅲでは、資本主義をどう終わらせるかという課題が、Ⅳでは戦後日本におけるマルクス研究史の概括が焦点となっている。そのいずれにおいても主題の通奏低音となっているのがアソシアシオンである。まず労働と所有という近代市民社会の原理がロックを通して検証されるのだが(第一章)、その焦点となるのは、労働と所有が実は労働の剝奪と所有からの排除を生むという逆説である。植村が着目するのは、ロックが「市民」だけに所有を認め、家僕や雇用労働者に所有を認めなかったことである。マルクスがこのことから、雇用労働者において私的所有が労働の剝奪を意味することを明らかにした。 だがこれだけでは批判は終わらない。次の課題は、奪われた所有をどう回復するかである(第五章)。植村は、マルクスが中央集権的財産共同体に向かう方向と、「個人の自発性を重視する自由な協同体=コミューン形成」(九九頁)を目指す方向との間で揺れながらも、最終的には後者へ向かったという。そしてそれを根拠づけるための資本主義の矛盾の捉え返しと、資本主義の人類史のなかでの批判的相対化が行なわれる。前者では資本主義の矛盾が資本主義の体系そのものにではなく、資本主義体系と非資本主義的領域との関係に由来することが明らかにされる(第九章)。そこでは、ローザの『資本蓄積論』を媒介としつつ、世界システム論における「中心/周縁」問題が資本主義への非資本主義的領域の組み込みの問題であり、資本主義の矛盾が「資本主義の内部的不可能性」(一七一頁)にあることが明らかにされる。そして後者の問題では、資本主義へ結実する「進化」の歴史の相対化の根拠が狩猟採集段階に求められる。 これは本書の第四章の問題となる。ここで植村はグレーバーの『負債論』を踏まえながら、採集狩猟民の生活文化に着目することの意味を展開する。採集狩猟社会における「分かち合い」は、「合理的感覚からは不必要なまでに徹底した互酬原理に基づく分配」(八八頁)というかたちで行われる。そこから植村は、「グレーバーの言う「コミュニズム」は、(…)労働の現場での「協働=助け合い」という形で実現される人間関係なのである。(…)「コミュニズムこそが、あらゆる人間の社交性(…)の基盤なのだ。コミュニズムこそ、社会を可能にするものなのである。したがってこれもまた人間の本源的社会性の一表現だということになる」(九三頁)という視点を引き出す。徹底的な贈与の原理に貫かれた社会の実現こそがアソシアシオン=コミューン主義としてのコミュニズムの核心となるということである。私は最近縄文文化に強く惹かれているのだが、植村の本によってマルクスとの関連も含めその思想的意味を教えられた。深く感謝したいと思う。(たかはし・じゅんいち=早稲田大学名誉教授・思想史)★うえむら・くにひこ=関西大学名誉教授・社会思想史。著書に『マルクスを読む』、訳書にカール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』など。一九五二年生。