アメリカのありえたかもしれない姿を思い描く 藤井 光 / 東京大学准教授・現代アメリカ文学・翻訳家 週刊読書人2023年1月13日号 果樹園の守り手 著 者:コーマック・マッカーシー 出版社:春風社 ISBN13:978-4-86110-832-7 二〇二二年も後半に差し掛かったところで、アメリカ文学における今年最大のニュースが飛び込んできた。実質的に二〇〇六年の『ザ・ロード』以来となる、コーマック・マッカーシーの長編小説が刊行されたのだ。しかも、以前から原稿の存在が確認されていた『パッセンジャー』(The Passenger)のみならず、それと対をなす『ステラ・マリス』(Stella Maris)の二作品が、立て続けに発表され、このベテラン作家の全貌は大きく更新された。 それとほぼ時を同じくして、日本においてマッカーシーの第一長編の翻訳が刊行されたことは、喜ばしい偶然だと言っていい。アメリカ合衆国とメキシコとの国境地帯を舞台とする物語群がよく知られているマッカーシーだが、初期の小説ではテネシー州東部などのアパラチア山脈周辺が特権的な意義を持っていた。そのキャリアの出発点たる『果樹園の守り手』(原著は一九六五年刊行)では、山地の厳しい自然のなかで生きる人々の姿、突如として噴出する暴力といった、後年にも引き継がれる主題を、叙情的な筆致とともに味わうことができる。 小説の舞台は主に一九三〇年代、ニューディール期のテネシー州に設定されている。夏、乾燥した灼熱の道路で幕を開ける物語はやがて、雨、雪、雹と季節をめぐっていく。とはいえ、物語のプロット展開は切れ切れにしか提示されない。数々の出来事や登場人物たちが現れては消える独特のリズムを追うなかで、それを包み込む世界をおぼろげに体験することを、読者に求めているとも言えそうである。 男たちによる酔っ払っての殴り合いや、偶然出会った女性たちとの強制的な性交渉、理由がはっきりしない襲撃と殺人など、物語の冒頭から欲望や暴力が色濃く示される。そのなかで、不法に生計を立てる若者マリオン・シルダー、父親が出ていったきり戻らず母親と暮らす少年ジョン・ウェスリー、そして放置されたままの果樹園を見守る老人アーサー・オウィンビーの三人が次第に中心的な存在となっていく。 少年ウェスリーの父の不在という境遇は、いかにもアメリカ文学的だと言っていい。その少年は、密造ウイスキーの運搬に関わるシルダーと、公権力に反発した生活を続けるオウィンビーの二人と接するようになる。猟を通じた自然との交流と、警察をはじめとする行政の統制との摩擦を経験した少年は、成長してどこに向かうのか。孤児の文学でもあるアメリカ小説において、この登場人物に託された未来を想像することは、アメリカのありえたかもしれない姿を思い描くことでもあるだろう。 この小説のもうひとつの大きな魅力は、比喩表現を駆使した自然や人間の描写に神話的な雰囲気が漂っていることにある。たとえば、物語後半で猛烈な雷雨のなかを動き回るオウィンビーの姿は、「さながら暗黒から炙り出された雨の妖精といった様子で、一瞬の雷光にその滑稽な輪郭が映し出された」(213頁)と語られる。法の支配をはねのけるようにして山の土地で暮らすがゆえに、ほとんど知られることのない人々の存在を、言葉を尽くして物語のなかに刻み込もうとする若きマッカーシーの賭けは感動的である。 翻訳者である山口和彦は、間違いなく日本で最良のマッカーシーの専門家である。本書の細部や背景にまつわる優れた知見は、訳者あとがきでも十二分に発揮されているが、そこからさらにマッカーシーの作品に分け入るためにも、同氏が二〇二〇年に刊行した『コーマック・マッカーシー 錯綜する暴力と倫理』が、ぜひ合わせて読まれるべきだろう。「欲望渦巻く暴力的な世界の本質に迫」りつつ、「人間はそこでいかなる倫理を紡げるのかを追究する」(同書25頁)というこの作家の特性が、さらに明確な輪郭を持って描き出され、他作品との豊かなつながりを理解することができる。合衆国だけでなく、二〇二〇年代の日本においても、マッカーシーの理解がさらに深まっていくことを期待したい。(山口和彦訳)(ふじい・ひかる=東京大学准教授・現代アメリカ文学・翻訳家) ★コーマック・マッカーシー=作家。ロードアイランド州プロヴィデンス生れ。著書に『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』から成る「国境三部作」、『ブラッド・メリディアン』『ザ・ロード』『チャイルド・オブ・ゴッド』など。一九三三年生。