膨大な事例・多方面の分野をカバーする歴史記述 北 美幸 / 北九州市立大学教授・アメリカ史 週刊読書人2023年1月13日号 人権の世界史 著 者:ピーター・N・スターンズ 出版社:ミネルヴァ書房 ISBN13:978-4-623-09218-5 昨今、国内外を問わず、人権と関係するニュースが毎日のように報じられている。「ドーハの歓喜」に湧いた二〇二二年サッカーのワールドカップにおいても、スタジアムや周辺施設の建設に従事した外国人労働者六〇〇〇人超が劣悪な環境下で死亡していたことが報じられた。また、カタールにおける同性愛者やトランスジェンダーの人々の扱いは、国際人権団体から批判を受けている。 本書は、ラウトレッジ社刊行による「世界史のテーマ」シリーズの一冊、Human Rights in World Historyの翻訳であり、原著は二〇一二年に出版された。前近代から現代のグローバル世界へと至る人権概念の成立・展開の歴史を追うことで、今後の人類社会の見通しを探ろうとするものであり、まさに今日の我々に必要な書物であるといえる。 以下、本書の内容を順に追ってみたい。第1章「今日の難問」では、今日起こっている問題、たとえば中国における一人っ子政策、女性器切除、先住民の飲酒、死刑や同性愛者などに焦点を当て、標準的な人権綱領がその内に含んでいる前提に対する各地域の違和感など、人権に関するいくつかの問題について述べている。続いて第2章「前近代の世界史における人権」では、ハンムラビ法典や各宗教の発生といった歴史に立ち戻り、人権概念が発生する前の世界各地の主だった社会について述べる。 人権概念は一八世紀に欧米で誕生したものであるが、以降の章では歴史を追ってその変遷を記述している。第3章「人権に向けての新しい推進力」では一八世紀における人権問題の登場について説明し、第4章「世界の舞台における人権」では、奴隷制および農奴制の廃止、ハイチ革命、そして先進国によるアジアやアフリカに対する帝国主義的支配による人権抑圧の強化など、一九世紀初めから第一次世界大戦後にかけての人権のグローバルななりゆきを追う。国際連盟が発足したこの時代は、人権のグローバル化が始まった時代といえる。しかし同時に「多様性」が表面化し、多くの障害と後退が発生した。 第5章「人権とそのグローバルな拡大」は、一九四八年の世界人権宣言に代表される第二次世界大戦直後の飛躍的な人権の進展と各国への波及、その後、今日に至るまで続けられている人権擁護活動や、それに対する継続的な障害について述べる。第6章「抵抗と反応」は、一九九〇年代以降の最近の問題に目を向ける。社会保障制度が後退し、経済的不平等・貧困の拡大と環境悪化が進行し、ジェノサイドを含む地域紛争、テロリズムが表面化した新自由主義的グローバリゼーションのもとでの人権について説明する。最後に第7章「結論」では、人権に関しての地域的な多様性についてのより体系的な考察や、十分に受容され得る新たな定義の構築への模索を通して、「人権」概念をより豊かなものにし全世界普遍のものとすることを呼びかけている。 アメリカの大学での教科書としての使用が想定されていることもあり、本書が扱う地域や時代、事例は膨大で、かつ研究史の記述も哲学、法律学、歴史学等の多くの学問分野に及んでいる。また、「名もなき人々」のエピソードを差し挟むことで読者がそれぞれの時代や地域における人権のイメージを膨らますのを容易にするような叙述にはなっていないため、立体感のある形で「人間」が見えてこず、楽しく読める書物とは言い難い。その点、上杉忍氏が丁寧な訳者解説を付して下さっているのが大変ありがたい。 本書の画期的な点として、「人権」という言葉が使われずとも類似した概念があったことを検証した第2章を含めた全般にわたり、「ある社会が人権をどの程度受け入れているのか」を測るリトマス試験紙として同性愛者の権利の状況に着目している点が挙げられるであろう。性的指向をめぐる人権以外にも本書は、子ども、女性(人工妊娠中絶を受ける権利を含む)、環境保持の権利等の「新しい人権」概念に着目し、その成立と展開、変容を精緻に辿っている。(上杉忍訳)(きた・みゆき=北九州市立大学教授・アメリカ史) ★ピーター・N・スターンズ=ジョージ・メイソン大学教授・歴史学。一九六三年、ハーバード大学にて博士号(歴史学)を取得。邦訳された著書に『権威と反抗』など。