当事者である著者が自尊心を回復するまでの過程から 人見佐知子 / 近畿大学教員・日本近現代女性史 週刊読書人2023年1月20日号 道一つ越えたら崖っぷち 性売買という搾取と暴力から生きのびた性売買経験当事者の手記 著 者:ポムナル 出版社:アジュマブックス ISBN13:978-4-910276-07-6 本書は、韓国の性売買経験当事者の手記である。著者は一九七〇年代に韓国で生まれ、一八歳から二〇年あまりのあいだ性を売って生きてきた。第1部には、著者の性売買の経験が克明に綴られている。 貧困やDV、度重なる性暴力はいとも簡単に著者を性売買に引き入れた。著者を苦しめた「前借り」という性売買管理の方法は、植民地時代に日本から朝鮮半島に持ち込まれた。市価より高い値段で購入しなければならなかったドレスや化粧品はすべて借金となった。休めば罰金を支払わなければならなかったし、住居費や生活費も差し引かれた。女性を抜け出せないようにして業者だけが儲かる仕組みがあった。 著者は、いわゆる「稼げる女」として業者にかわいがられた。しかし、前借りは増える一方で、買春男性を相手にする苦痛は少しも減らなかった。それでも性売買をやめることは考えなかった。いつも身近にいて、窮地に陥るたびに著者に手を差し伸べてくれるのは性売買業者しかなかったからである。お返しをしなければならないという思いが余計に著者をがんじがらめにした。 第2部は、ようやく性売買から抜け出すことを決意し、女性人権支援センターの力を借りながら脱性売買を成し遂げてから現在までが書かれている。脱性売買を成し遂げるとはどういうことか。それは、単に性売買をやめることではない。性売買が性搾取であり性暴力であったことを理解する過程である。 長く性売買の店で生活し、その習慣に深く馴染んでいた著者は、女性人権支援センターがなぜ自分を支援してくれるのか分からず、なかなか心から信用できなかった。これまでとはあまりにも違う環境に、辛かったはずの性売買になんども戻ろうとした。自身の経験が暴力であり搾取であったと自覚することではじめて著者は、性売買経験当事者というアイデンティティを獲得できた。現在は、フラッシュバックにさいなまれながらも性売買経験当事者として反性売買活動をおこなう。 性売買を労働と認めることが性を売る女性の人権と尊厳を守ることにつながるとする考え方がある。セックスワーク論という。はたして性売買が労働として認められていれば、著者の人権や尊厳は守られたのだろうか。 セックスワーク論に覚える戸惑いのひとつは、業者/買春客と女性のあいだの非対称な権力関係に無頓着に思える点である。歴史的に見ると性売買は、家父長制や性差別的な社会構造と不可分に成立し存続してきた(国立歴史民俗博物館監修、「性差の日本史」展示プロジェクト編『新書版性差の日本史』集英社インターナショナル、二〇二一年)。そうであれば、現在の性売買もまた現存する性差別や男性中心の社会構造と切り離せないはずだ。 渦中の当事者が性売買を暴力だと自覚することの困難にも、目を向ける必要がある。業者の言うまま、性売買が生きるための唯一の手段だと思い込んでいた著者は、反性売買運動を敵視する一方で、理不尽で不当な扱いを受けるのは稼げない自分のせいだと思っていた。業者はよく心得ていて、女性の自負心に訴えたり互いに競わせたりして実に巧みに管理した。買春客は金で暴力を正当化した。 もとより非対称な権力関係を利用して成り立つ性売買の完全非犯罪化(女性のみならず業者や買春客も処罰しない)が誰に利益をもたらすのかは明らかだろう。著者が性売買の経験を再解釈し自尊心を回復するなかでたどりついた、セックスワーク論は「理論だけに埋没している言葉だ」(三七四頁)という主張は、だから説得力がある。 二〇〇四年に性売買特別法が制定されたことで閉鎖となった性売買集結地がある(集結地の多くは植民地時代の遊廓に起源をもつ)。著者はしかし、その空間が消えていくことに複雑な思いを抱く。搾取されながらも、苦しみのなかで命をつないできた自分たちの人生の痕跡をも消し去られてしまうように感じるからである。 そうした著者たちの思いを引き受ける場所がある。全州市の性売買集結跡地では、建物の一部を性売買女性の生きた歴史を記憶にとどめるためのミュージアムにし、中心地を公園にして女性の人権を考えるための空間にした。かつての遊廓が「花街」に読み替えられ、妓楼遺構が性売買の歴史的文脈と切り離されてまちづくりなどに活用されている日本の現状との隔たりに、女性の人権に対する認識の落差を感じざるを得ない。 筆名のポムナルはハングルで春の日をいう。性を買われたり売ったりしなくても生きていける社会=春の日の訪れまで、たくさんのポムナルさんとともにしたい。(古橋綾訳・李美淑監修)(ひとみ・さちこ=近畿大学教員・日本近現代女性史)★ポムナル=性売買という冷たい冬を越え、万物が蘇生する春の日(ポムナル)に社会の懐に戻って来た。自分が受けた暴力の経験を解釈し直し、性売買経験当事者たちと共に反性売買活動を行っている。「2021今年のジェンダー平等文化賞・ジェンダー平等文化支援賞個人部門」受賞。