世界に対する驚きの強度を求めて 福島亮 / フランス語圏文学研究 週刊読書人2023年1月20日号 シュルレアリスムへの旅 著 者:野村喜和夫 出版社:水声社 ISBN13:978-4-8010-0670-6 本書を読みながら、詩を読む歓びや興奮が疼き出すのを感じていた。著者の表現を借りるなら、それは「なつかしい未知」への疼きである。「なつかしい」という語に託されているのは、過ぎ去った時代の懐古というよりも、もっと底知れぬもの、例えば、言葉や世界に対して子どもが抱く驚きの強度のようなものだろう。 本書は二部構成である。「中心」へ接近する第一部では、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンといった、シュルレアリスムの中心にいた詩人たちを歴訪する。次いで、「周縁」へ向かう第二部では、ジャック・プレヴェール、ルネ・シャール、エメ・セゼール、オクタビオ・パス、さらには瀧口修造、左川ちか、吉岡実、そして『麒麟』の同人まで、果てしなく続く汀を辿る。 二〇〇〇年代以降、日本におけるシュルレアリスム研究の進展はめまぐるしい。例えば、水声社の叢書「シュルレアリスムの二五時」は、扱われる作家・詩人の幅広さにおいて、世界的に見ても前例のない試みである。また、同じく水声社から二〇一五年に刊行された『シュルレアリスム、あるいは作動するエニグマ』は、研究をリードしてきたジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロン――残念ながら二〇二二年九月に逝去した――の日本語版オリジナル論文集だ。 さりながら、この運動の核心にあったはずの「詩」を手にとる読者は、果たしてどれだけいるだろうか。いや、読者ばかりではない。「詩は今日、散文化や大衆化や平準化を通して、おのれの言語的権能を低く見積りすぎている」のではないか。 著者はこのように問題提起したうえで、シュルレアリスムの詩を読む旅へと読者を誘う。旅の狙いは、無味乾燥な通史を描くことではない。具体的なテクストに寄り添い、また著者自身の詩作品にも目を向けながら、シュルレアリスムが今日の脈絡において示す「可能性のありか」を見出すことが本書の狙いなのである。 著者は、その狙いを詩の実作者として果たす。例えば、シュルレアリスムの鍵語のひとつに、「客観的偶然」という概念がある。思いがけない偶然の一致が、必然としての切実さを帯びること。評者はこのようにこの概念を理解していた。ところが著者は、「人間的な言語=世界の外」にある「もうひとまわり大きい世界の無意識」が顔をのぞかせる瞬間として、客観的偶然に新しい光を当て、その謎めいた深みへと沈潜する。著者はこの発想を思弁的実在論と結びつけているが、「不老川」というトポスを通して人間の尺度とは別の尺度を示してきた詩人の感性のうちに、それはすでに胚胎されていたのかもしれない。 本書の圧巻は第二部である。植民地出身のエメ・セゼール、非フランス語圏出身のゲラシム・ルカやオクタビオ・パス、あるいは運動の周縁でその限界を徴づけてきた女性たち、といった具合に、多様な視点から、二十世紀最大の芸術運動の限界と可能性とが炙り出される。以上のような手続きを経たうえで、日本におけるシュルレアリスムの受容について、それは反抗すべき「伝統」の厚みを欠いた表層的なものであった、と著者は指摘する。そして、この表層性を打ち破り、「身体イメージの土俗性、土着性」を導入した吉岡実の詩作のうちに、日本におけるシュルレアリスムの具現を見てとるのである。 かくして、第二部で描き出されるのは、「異質にして特殊な地域性(風土)に接木されてはじめて普遍性を帯びる」ものとしてのシュルレアリスムである。このような「接木」については、黒人詩論「黒いオルフェ」(一九四八年)のなかで、サルトルがすでに語っていた。だが、本書が示すのは、シュルレアリスムが咲かせる「巨大な黒い花」(サルトル)ではなく、ずっと小さく貴重ななにか、時間と空間を超えて息づく、詩の息吹のようなものである。 この息吹が、弱さや恥じらいを内包した微かな抒情となって本書の頁から立ち昇る瞬間、評者の心は疼く。例えば、シュルレアリスムの「法王」と呼ばれたアンドレ・ブルトンが亡命時代に書いた詩篇「最小の身代金」に、著者は詩人の「弱音」を聴きとる。そして、こう記すのだ。「弱音とは、魂の底をくぐってきた言葉のことである」――。著者が詩のなかから救い出すこの「弱音」の勁さを、今、あえかな希望と呼ばずしてなんと言おう。(ふくしま・りょう=フランス語圏文学研究)★のむら・きわお=詩人。著書に詩集『風の配分』(高見順賞)『ヌードな日』(藤村記念歴程賞)『薄明のサウダージ』(現代詩人賞)、評論『萩原朔太郎』(鮎川信夫賞)、ほか小説、フランス文学関係の著作など。一九五一年生。