建築家にしてネオ・ダダイスト、磯崎新をも想う 彦坂尚嘉 / 美術家・詩人 週刊読書人2023年1月20日号 ネオ・ダダの逆説 反芸術と芸術 著 者:菅章 出版社:みすず書房 ISBN13:978-4-622-09093-9 本書の著者である菅章氏は、大分市美術館の館長でいらっしゃいます。 菅章氏は、東京造形大学の美術学科絵画科を卒業され、二〇一〇年より現職の館長になられたのです。館長になられたと言っても美術大学で絵画を専攻しておられたのですから、普通の館長とは違うのです。どこが違うかと言えば、アーティストたちの気持ちが良く分かるのです。というわけで本書の刊行以前に、大分市美術館で、ネオダダの美術展が積み上げられていたのです。 本書には『ネオ・ダダJAPAN1958-1998──磯崎新とホワイトハウスの面々』(一九九八)という展覧会のカタログの文章が収録されています。さらにネオダダの発案者でリーダーであった『吉村益信の実験展』(二〇〇〇)のカタログの文章も収録されています。さらに天才であった『風倉匠展』(二〇〇二)、『赤瀬川原平の芸術原論展』(二〇一四)の記事も収載され、『磯崎新の謎展』(二〇一九)の説明書が 再録されています。本書は、こうした企画展の現場での調査・研究という展覧会の詳細な成果を読む事ができるのです。 その最初の『磯崎新とホワイトハウスの面々』という展覧会は、一九九六年四月、菅氏が磯崎新氏に初めて会ったときの会話から生まれたものです。ネオダダ展を提案したのは磯崎氏で、しかし「ネオダダは作品がほとんど残っていない」と展覧会開催の不可能性を菅氏は主張したにもにもかかわらず、二年後にはネオダダ展が開催されたのです。「作品がほとんど残っていない」のに、どのようにして展覧会が開催できたのでしょうか? 作品の無い空っぽの廃墟美術展であったのでしょうか? つまり建築家であり理論家であった磯崎新とは、実はネオ・ダダイストであったと言える人物なのです。 美術手帖に一〇回(一九六九年十二月-七三年十一月)にわたって不定期連載された『建築の解体』という著作は、近代建築を前提とした既成の建築概念が解体し多様化していく六〇年代後半の状況を、登場する七人の建築家およびグループを通して当事者に近い視点から整理した解説書でした。 つまりネオダダというのは美術だけではなくて、建築を含む広範な文化的な革命であったのです。しかもこの磯崎氏が、若き日の五〇年代には、吉村、風倉、赤瀬川原平らとともに『新世紀群』というグループ活動をしていたのです。 そして五七年には新宿百人町にホワイトハウスとよばれた磯崎による設計の吉村益信のアトリエができて、ネオダダの拠点になります。つまり日本のネオダダと本書を企画したのは、磯崎新であったとも考えることが可能かもしれないのです。 『ネオ・ダダの逆説──反芸術と芸術』という本書の題名からすると米国の一九五〇年代初頭の『Action Painting』に続く、次の世代の傾向を示す名称『Neo-Dada』を連想します。それまでのアクションペインティングを否定して、廃物や大衆的なイメージを使用したR・ラウシェンバーグやJ・ジョーンズらの活動を、美術評論家のハロルド・ローゼンバーグが『Neo-Dada』と名づけたことが、日本のネオダダの語源にもなったからです。 しかし、本書はあくまでも日本人のネオダダの本なのです。世界的視点はほぼ放棄されていて、日本人的視点に還元されているのです。だから、大変に読みやすく、理解し共感できるものです。 吉村益信や篠原有司男、荒川修作、風倉匠、赤瀬川原平、岸本清子、木下新、豊嶋壮六、平岡弘子、升沢金平、吉野辰海、田中信太郎をメンバーとしていました。グループには入らなかったアーティストが、工藤哲己、三木富雄、建築家の磯崎新でした。 これらの日本人アーティストの活動の詳細な探究は、大変に優れていて今日読み返す価値があります。過去の事にもかかわらず今日の起源が明示されていて、ちっとも古くないのです。 最後に私的感想を書けば、私は吉村益信さんとその作品を、同時代的に見てきています。一九七五年を過ぎると、吉村さんをはじめとしてネオダダのアーティストたちは画廊街を歩かなくなりました。この空白期を超えて、再度戻って来たのは篠原有司男さんだけでした。私は心に残っていた吉村さんに会いに行きました。彼は重い鬱病になっていましたが、会って下さって、明るく話してくれました。 私が話を伺いに行った一つの理由は、彼は戦時中の神風特別攻撃隊の生き残りだったからです。私は敗戦の翌年の一九四六年生まれなので、特攻隊や沖縄のひめゆり部隊に、強烈に惹きつけられていたのです。 こうして、一九七五年というアメリカがベトナム戦争に敗れたときに、近代という時代が終わったことを吉村益信さんの鬱状態と向き合うことで体験したのです。 さて、米国はなぜに北ベトナムという小国に敗北したのでしょうか。それは日本軍一〇〇〇名が、大日本帝国を離脱して残留日本兵となり、アジア解放の大義を掲げて北ベトナム軍に参戦したからです。「この戦争は長くなる。だから戦争を指揮する士官を養成する必要がある」と言って北ベトナムに学校をつくって、日本兵が教官になって教育したからです。これを中共は嫉妬して、日本兵をベトナムから排除しましたが、しかし日本人がつくったクァンガイ陸軍中学など三つの軍事学校は作動し続けて米軍を打ち破り、北ベトナム軍に勝利をもたらしたのです。 元特攻隊の吉村益信さんは、なぜに一九七五年のアメリカ帝国の敗戦に出合って鬱病になったのでしょうか? ネオダダイストとして米国の勝利を望んでいたのでしょうか?本稿の執筆後に磯崎先生が死去されました。拙稿をご仏前に捧げたいと思います。(ひこさか・なおよし=美術家・詩人)★すが・あきら=大分市美術館館長。共著に『美術鑑賞宣言』『成田克彦 「もの派」の残り火と絵画への希求』など。一九五三年生。