日本語の小気味よい律動 大野露井 / 翻訳家・法政大学准教授・日本文学 週刊読書人2023年1月27日号 テーゲベックのきれいな香り 著 者:山﨑修平 出版社:河出書房新社 ISBN13:978-4-309-03088-3 現実から逃れよう、逃れようとする癖(へき)がある。近代文学を愛し、古典を研究するのも、一つにはそれが「昔のこと」であって、ゆえに純粋に言葉に耽溺することを許してくれるからである。作中にまで「いま・ここ」が闖入し、おれとおまえの等身大のやりとり、すなわちエリート作家による「最近の若者(ストリート)言葉の再現」を無理やり読まされるのは拷問でしかない。生身の言葉なら新鮮だなどと思ったら大間違いで、どんな衣装をまとおうとも、そこに詩がなければ死あるのみだ。そこで詩人の出番である。 『テーゲベックのきれいな香り』の主人公ほど明快に、詩人であることを自らもって任じている人物は稀だろう。世界を包み込んだ厄災と友人の死を乗り越える途上にある〈わたし〉は、近未来を生きている。行き詰まる〈わたし〉のまえに、新たな表現手段として小説を書くということが浮上する。書くことができれば、きっと先へ進めるだろう。だが〈わたし〉を満たしているのは期待ではなく不安、いや未知である。小説とは何だろう? リフレインのように幾度も繰り返される「書くために書く」あるいは「書かないことで書く」決意は、宿命として意味を変え続ける言葉の渦に翻弄されるうちに散り散りになり、詩人は東京を中心に描かれる精緻な地図を歩きまわって、その破片を拾い集める。街路(ストリート)には膨大な記憶が染みついている。過去の思い出かもしれないし、未来の痕跡かもしれない。集められた言葉は次第に手に負えなくなり、いつの間にか主人公が「虎子」なる人物と入れ替わっていたりもするのだが、そんなことで立ち止まるには及ばない。〈わたし〉の愛犬として特別な重みを与えられた記号である「パッシュ」の存在が示すように、この小説は大いなる「寄せ集め(パステイーシユ)」として読者に臓腑をさらけだしている。あとは読めばいい。そこからは読者の出番である。 この作品を褒めるつもりで「意味不明」とか「斜め上」とか、ましてや「シュール」だとかいう言葉が喉から出かかったら、全力で呑み込むことをお勧めする。思考停止はこの小説にそぐわない。考え続け、歩き続ける〈わたし〉は、ありとあらゆる言葉を口寄せながらも小説を書きあぐね、自分の言葉を探してもがく。その意味でこの物語はひたむきで、愚直でさえある。それが心地よいのは、行く先々で立ちはだかる天を衝くような言葉の壁に、〈わたし〉がちっとも絶望するそぶりを見せず、むしろ内心ではそれをことほいでいるようにさえ感じられるからである。いうまでもないことだが、言葉を易々と手懐けることができ、それを組み合わせるだけでお手軽に小説が書けてしまったら、面白くもなんともないのである。きっと読者も〈わたし〉と並んで歩くうちに、どこかで落としてきた言葉をふと思い出し、何気なくつぶやいてみたくなるだろう。そこから詩が生まれるかもしれないし、ひょっとすると小説にも化けるかもしれない。そんな作者と読者の共犯関係を生中継的に記録したものが『テーゲベックのきれいな香り』であるとするならば、「いま・ここ」も案外、悪くないと思えるのだ。 ところで山﨑氏の第二詩集『ダンスする食う寝る』が舞踏の形で舞台化されているのは偶然ではない。『テーゲベックのきれいな香り』でも遺憾なく発揮されるのが、氏の日本語の小気味よい律動である。舞踏の黒幕のひとり、土方巽は人前で踊ることをやめたあと、言葉による表現へと傾斜した。『病める舞姫』をはじめとするその作品を世間は敬して遠ざけたが、ひとたび朗読して身体を震わせてみれば、そこに舞踏の続きを見出すことは難しくない。すると山﨑氏はさしずめ踊れる小説家としての第一歩を踏み出したことになるが、その舞踏は世の詩人にとっても小説家にとっても実に刺激的なのである。(おおの・ろせい=翻訳家・法政大学准教授・日本文学) ★やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家。著書に詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』『ダンスする食う寝る』(歴程新鋭賞)など。一九八四年生。