世界は生命の〝ざわめき〟で満ち溢れている 奥山淳 / 写真家 週刊読書人2023年1月27日号 森の来訪者たち 北欧のコテージで見つけた生命の輝き 著 者:ニーナ・バートン 出版社:草思社 ISBN13:978-4-7942-2611-2 スウェーデンの美しい森に建つ古ぼけたコテージ。様々な生き物たちと出会うことができるこの場所からニーナ・バートンの思考が生まれる。その出発点は、いつも足元の小さな世界である。たとえば、ある日、コテージの壁で行列をなすアリの群れを発見する。この瞬間から彼女の興味は、アリの生態へと向かう。ちっぽけなアリの繊細で高度な社会生活を語る言葉は、自然科学の深い知識と詩人特有の美しいレトリックに彩られている。それは実に映像的であり、まるでハイテク技術を駆使して撮影されたサイエンス・ドキュメンタリーにも似た趣きがある。しかし、彼女の言葉は、人々が関心を払おうともしない小さな隣人の暮らしぶりを解き明かすことを目的にしているのではない。向かう先はニーナ自身を含む我々、人間だ。すべてが地球の子であるこの生物界において、人類とはどのような存在であり、私たちの営みを司る生命はどのような姿なのだろうと問い掛ける。その答えを探すためにニーナは人類の知的財産にも広く手を伸ばす。アリストテレス、メーテルリンク、ダ・ヴィンチ、ダーウィンといった求道に生きた哲学者や芸術家、生物学者の思索を自在に引き寄せながら生命が奥底に宿すものに近づこうとする。著者のこうした自由な思考は、顕微鏡と天体望遠鏡を両手に持ち、森羅万象の秘密を記した空飛ぶ絨毯に乗って過去と未来をめぐる時空の旅人のようだ。 そして、この不思議な旅人がひときわ注目するのが生き物たちが持っている「言葉」だ。歌うことが大好きな鳥たちはもちろん、マルハナバチ、海に暮らすニシンやイワシ、イルカやキツネ、そして木や花々といった植物や粘菌に至るまで、生き物は「言葉」によって存在していると説く。我々人間は、この地球上を埋め尽くす多様で多彩な言語を感知していないだけなのだと。 この気づきはニーナに新たな問いと発見をもたらす。無数のアリたちの一匹一匹が彼らの社会を存続させるためにいくつもの言葉を巧みに使い、そして死んでいく。では人間はどうだろうか。そのときニーナは、「私は執筆小屋の鏡に近づいた。私が見ているのは、社会的細胞の巨大なコロニーなのだ。周囲の世界に反応する感覚と、私自身について考える脳をつくりあげたのも、そのような細胞なのだ。毎日千個の神経細胞が死んでいるとしても、私は同じままでいられる。言葉が使えるから、私は明確な「私」をつくることができたのだろうか?」と自分を見つめる。生物学という視座に立つと細胞は紛れもなくひとつの生命である。それが生と死を繰り返しながら「私」を存在させる。そこに言葉が大きく作用している。ニーナはつぶやきにも似た言葉で生命という大きな流れにおける自我の実存の拠り所を探し出そうとする。 この思索の書は一貫して、このような流れで進む。求めるものはあるが帰結はせず、円環を辿る。しかし、本書の終盤、ニーナは絡む糸を解きほぐすかのように「互いに栄養を与え、交尾し、会話し、追いかけたり逃げたりするために、絶えずその手を伸ばそうとする有機体。お互いだけではなく、大地、水、空気とも濃く密接な関係を持ちながら。これは、すべてを生かそうとする永遠の相互作用だ」と「生命」を簡潔な言葉に置き換える。森のコテージでニーナが見つけた一番大きなものは、世界が生命のざわめきで満ち溢れているという事実だった。このざわめきが呼応しあうことで人間を含むすべての生命は存在する。これこそが彼女が欲した答えだった。そして、それは僕にとっても必要な答えだった。なぜなら、僕もまたニーナと同様、森の住人だからだ。クマ、キツネ、ウサギ、フクロウ、虫たち。僕の生活の拠点がある岩手・雫石の森にも無数の生命が満ち、その営みに触れる日々は、人と自然の間にある難しい問いを生み続けているからだ。ニーナが見つけた生命のざわめきは、人がもう一度、自然の中へと入っていけると、背中を押してくれるものだった。(羽根由訳)(おくやま・あつし=写真家)★ニーナ・バートン=スウェーデンの詩人・エッセイスト。二〇一六年、『The Gutenberg Galaxy Nova』でアウグスト賞(ノンフィクション部門)を受賞。一九七九年生。