ヒュームの帰納を通って知覚の外側に至ることは可能か 森直人 / 高知大学人文社会科学部教授・社会思想史 週刊読書人2023年1月27日号 なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する 著 者:成田正人 出版社:青土社 ISBN13:978-4-7917-7498-2 デイヴィッド・ヒュームは一八世紀スコットランドの哲学者である。本書は「帰納」をめぐる彼の議論を主題とするが、著者はアカデミックな研究ではなく「哲学で遊ぶ」という(二〇頁)。その「遊び」に読者を誘う本書は、専門性の束縛から踏み出す自由な冒険とも見える。哲学を専門としない評者が選択された理由もここにあるのだろう。 とはいえ、評者は本書の読解に苦しんだ。文章が難解というのではない。表現は平易で、議論の筋道は繰り返し確認される。帰納を主題とし、経験について(一〜三章)、妥当な帰納について(四〜六章)、未来について(七・八章)問う構成も明確である。しかし本書には、目的や脈絡が評者には理解し難い考察も少なくない。読解力の不足、特に哲学研究固有の文脈やそれへの著者の応答を読み解けない評者の力量不足だろう。 それを前提に、まず「経験」について見よう。ヒュームにおいて、人間の精神は「知覚」で構成され、知覚は活気ある「印象」とその模像の「観念」に分かれる。人間は、現在の印象や記憶の他に、観念間の比較に基づく「知識」と、印象から帰納推論される「蓋然的な信念」を持つ。矛盾を孕むような観念の関係は思考不可能だが、明晰に思考可能なものは経験可能とされ、他方で全く未知の印象を経験することもありうる(後述の「未来への帰納」と関連)。なお、著者は観念と印象の断絶を強調し、記憶や想像が印象ほど活気を持つのは不可能とするが、ヒュームの共感論との関係で疑問が残る。 次に「帰納」について。帰納とは、個別的な経験から個別的なこと、ないし一般的なことへの推論であるとされる。著者によれば、論理的には、一般化する帰納が個別的な帰納を正当化し、「自然の斉一性」原理が一般化する帰納を正当化する。しかし自然の斉一性自体が帰納による信念であり、循環が生じる。この問題をヒュームは次のように解消する。帰納とは、ある印象と別の印象が過去に繰り返し連続して現前した場合に(恒常的連接)、一方の印象を見ただけで他方の観念を思い抱くよう習慣によって人間の精神が決定されることに他ならない。人間は合理的な正当化なしに、自然本性によって帰納する。 最後に「未来」について。著者は未来への帰納推論が問われる「印象への的中」という問題を「形而上学」の問題として考察するが、その考察は、評者からみて特に疑問に思われる。まず著者は、「印象への的中」が認識論を越えて、知覚の外側にある世界自体の問題となるという。しかし評者には、未来への帰納推論の的中を問うこと自体、帰納推論が外れた過去の経験が精神を決定する結果であり、知覚の内側の出来事であるようにも思われる。次に著者は、帰納の問題をただ自然本性的に考えるのは「粗雑なやり方」とし(二三四頁)、カンタン・メイヤスーの議論に拠りつつ、ヒュームが「世俗の人間でなく、哲学者であるのなら」理性に従って自然の斉一性を存在論的にも疑うはずだと論じる(二四〇頁)。しかし評者には、哲学者の思考も全ての人間を縛る習慣の強制力に束縛されているという認識にこそ、哲学者ヒュームの卓越性があるように思われる。さらに著者は、印象と観念を「私たち(の精神)から切り離し、世界それ自体に埋め込」み、それにより世界自体が得る「帰納的な存在構造」を存在論的に考えるという(二四五〜六頁)。だが、その仮想的な世界の解明は、現実の世界に何をもたらすのだろうか。私たちの精神と同じ帰納的構造を付与された仮想世界とは、知覚の外にあるものと言えるだろうか。そもそも、ヒュームの意味での印象と観念と帰納が「存在する」世界とは、思考不可能な矛盾を含まないだろうか。ともあれ、こうした考察の先で著者は、メイヤスーや中島義道の議論を引用し、世界の歩みも人間本性も全てが変化しうる「未来」を描く。 帰納の問題をヒュームに即して探究し、かつ人間本性の束縛という限界を越えて、知覚の外側へ、世界自体の形而上学的考察へと進めば、全てが変容しうる「未来」の本来的あり方に到達する――評者の不十分な読解の限り、これが本書の物語と思われる。では読者はこの物語を共有できるだろうか。評者には疑問が残る。特に著者の考察が、読者の現実の世界と交差しない仮想世界の探究にとどまっていないか疑問である。なお、もしヒュームから形而上学を考えるなら、彼の『自然宗教をめぐる対話』が手がかりにならないだろうか。(もり・なおひと=高知大学人文社会科学部教授・社会思想史)★なりた・まさと=東邦大学非常勤講師・哲学。二〇一七年、日本大学大学院文学研究科にて博士号(文学)取得。一九七七年生。