唯一無二の存在、原点から誕生までの軌跡を描く 八木寧子 / 文芸批評家 週刊読書人2023年2月3日号 すべてのことはメッセージ 小説ユーミン 著 者:山内マリコ 出版社:マガジンハウス ISBN13:978-4-8387-3224-1 一九七〇年代生まれの評者にとって、物心ついたときにユーミンはすでにユーミンだった。少し上の世代は「荒井由実」時代を知るためよくその名を口にしていたが、デビュー五十周年を迎えたという昨年二〇二二年のNHK紅白歌合戦で「AI荒井由実」と「松任谷由実」の共演を目にしたとき、そんな荒唐無稽な演出が違和感なく成り立つ「ユーミン」という唯一無二の存在をあらためて実感した。 そして、それまで深く考えずに「ユーミン」は「ユーミン」たるべく作られた存在、戦略的に拵えられた設定だと思い込んでいたが、その認識が本書によって見事に覆された。彼女は、生まれついた瞬間から、なるべくして「ユーミン」になったのだ。その才能は天賦のものであり、それが開花するのは必然だったと、作家・山内マリコは証明したのだ。 一八歳の荒井由実が一九七二年に「返事はいらない」でシンガー・ソングライターとしてデビューしたとき、「あまりにも異質で、わけわからない人が出てきた」と音楽評論家の平山雄一は感じたという。つまり彼女の音楽には前例がなかったのだ。ピアノと清元(三味線)を習った素養を下敷きにした楽曲は精確に構築されたコード進行をもち、十代ながらそれまでに吸収してきたさまざまな音楽をミックスさせた上で完全なオリジナリティを放っていた。そして、美術にも造型が深かった彼女独特の豊かな詩の世界。「絵画のようにそれぞれの世界があり、温度があり、湿度があり、天気がある」という楽曲を作るユーミンこと荒井由実がどのように生まれ育ち、然るべくして世に出てきたか。その原点に迫り、軌跡を描く一書である。 本書は評伝ではなく、小説、フィクション。とは言え、主人公は八王子の裕福な呉服屋に生まれた「由実」そのものであり、作中には母・芳枝をはじめとして、実在の人物が数多く登場する。中学生の由実が追いかけていたグループ・サウンズのバンドの面々、特に、「ユーミン」命名の主となる〈ザ・フィンガーズ〉のベーシスト、シー・ユー・チェン、六本木の伝説のイタリアン「キャンティ」のオーナー夫妻や、デビュー前からの知り合いで由実のレコーディングに関わるムッシュかまやつ、細野晴臣、鈴木茂、この書評を準備しているさなかに訃報が飛び込んできた高橋幸宏、そしてのちに由実と結婚する松任谷正隆……。 それらの人名、また実在の店や会社、場所、章題になっている「立教女学院」「立川基地」「カルチエ・ラタン的御茶ノ水」などを追うだけで、由実が生きてきた時代、眼にしてきたもの、触れてきた文化がリアルに伝わってくる。「由実」という感性豊かな少女の物語は、例え彼女とユーミンを切り離しても、読む者を一瞬で魅了する。 まだ戦後の気配が残る一九五〇年代、子守り女中の帰省について行って東北の田舎で自然のオーケストラと感応する由実の描写から書き起こされるプロローグは、まるで映画のよう。そして、巷で流行していた歌謡曲や教会で触れたオルガン演奏や聖歌、ジャズ喫茶で知るGSなど、あふれる好奇心に突き動かされて次々と開かれる「異世界」の扉、新しい世界との出会いがきらきらとまばゆく、軽快なサウンドに乗って綴られてゆく。 名曲「ひこうき雲」のきっかけとして知られる同級生の死や、ユーミンサウンドの核とも言える「サウダージ(郷愁)」のルーツ、由実が最初に作った「マホガニーの部屋」に影響を与えたと言われるイングランド出身のロックバンド「プロコル・ハルム」の『青い影』を初めて耳にした瞬間など、ファンならずとも引き込まれるエピソードもふんだんに盛り込まれており、戦前から戦後という時代の転換点を迎えた日本の産業史、ファッション・被服史、芸能・歌謡史、また西洋文化の受容史のみならず、女性史、社会史としての側面も見逃せない。 西洋と東洋、近代と現代、まるで汽水域のように両者が入り混じる時代の様相が、ユーミンという傑物を生み出すまで。 「オーロラ状に色彩として現れる、きれいな音の束。ドレミファソラシの七音と、半音あがった黒鍵の五音が無限に織りなす、妙なる音色。ある鍵盤を同時に押すと鮮やかな柑橘系の色が見え、音の組み合わせを少し変えると、今度はピンクがかった夕焼け空が、紫色に刻々と変化するときのような、独特にせつない色味になった。それがなんとも美しいのだ」 「土蔵のなかのほこりっぽい暗さ、遠くに笑い声の響く公園の砂場や草むら。浅川にしろ庭のつくばいにしろ、水面がきらきらしているのを見ているだけで、ああ、なんて美しいんだろうと心底感激し、想像力でどこまでも飛翔できた」 突出した由実の感性と時代背景を的確にとらえ描出する作家の筆は鋭く冴え、それこそ音楽のように自在で伸びやかである。 「みんなと同じは嫌」 この気質に貫かれた美学を文学で味わう至福。聴いてから読むか、読んでから聴くか、聴きながら読むか。それもまた選びがたく、愉楽と醍醐味は尽きない。(やぎ・やすこ=文芸批評家)★やまうち・まりこ=作家。著書に『ここは退屈迎えに来て』『あのこは貴族』『一心同体だった』など。一九八〇年生。