「人間の条件」が変わりゆく時代に 小林雅博 / 立教大学兼任講師・神奈川工科大学非常勤講師・思想史・人新世研究 週刊読書人2023年2月3日号 人新世の絶滅学 人類・文明滅亡の思弁的空無実在論 著 者:星野克美 出版社:鳥影社 ISBN13:978-4-86265-999-6 「きっとそこでは何も起こることはなかっただろう」。ニーチェは「道徳外の意味における真理と虚偽」という論考のなかでそのように論じた。人間という賢しらな獣が認識や知性というものを発明してから、彼らが絶滅するまでの約七〇〇万年間、そして彼らの生の痕跡が完全に消滅してしまうであろう人類絶滅後のこの惑星において「そこでは何も起こることはなかっただろう」、とニーチェは述べる。 しかし、地上において、人類が絶滅した後も、人類の諸活動の痕跡は、少なくとも四五億年は惑星上に残存するといわれている。たとえばウラン238という放射性物質がこれに該当する。ウラン238という放射性物質の半減期は四五億年を要するようである。つまり、ニーチェが想定したような「そこでは何も起こることなかっただろう」という、人類の生と存在の諸痕跡が完全に消滅するという事態は、人類の絶滅と同時にたちまち生起するというわけではなく、人間的諸活動の痕跡はこの惑星の地質構造の中において、人類絶滅後も「長く続く」のである。放射性物質という人間が創造した化学物質は地下深くに廃棄され、人類が絶滅した後もその地層の深みにおいて何十億年も残存しつづける。 放射性物質に象徴される人間的諸活動の痕跡がこの惑星の地層へと物質的にインプリントされつづける事態こそが、「人新世」という地質学的時代の本質に他ならない。 人新世とは、周知のように、オランダの大気学者であるクルッツェンが提唱したといわれる、完新世につづく新しい地質学的時代区分である。人新世という時代において「人類は絶滅危惧種になる」という見解が本書を貫いている基調音であり、著者は本書において膨大な自然科学的データを参照することで、自らのきわめて特異で急進的な絶滅論を加速させていく。 本書でもしばしば参照される、ⅠPCC第六次報告書において明白に記載されているように、産業革命以降排出されつづけてきたCO2の濃度上昇は、この惑星の地表温度と海面温度を上昇させ、これに伴い大型台風、豪雨、洪水、干ばつといった極端な気候現象の発生頻度も上昇させている。これに加えて、海水面の上昇、永久凍土の融解に伴う氷河湖の決壊および新しい感染症の発生、熱波による食料資源や水源の枯渇、居住可能域の縮減といった気候危機に基礎付けられた自然は、人新世における「人間の条件」を大きく変容させることになるだろう。 本書は、第Ⅰ篇「形而下の絶滅学」、第Ⅱ篇「形而上の絶滅学」から構成されている。第Ⅰ篇では、著者が約半世紀かけて研究してきた文明崩壊や気候変動に関する自然科学的、文明学的、経済学的データが縦横無尽に蒐集され解析されている。第Ⅱ篇では、現代思想の実在論的諸潮流における絶滅論的言説に駆け足で触れつつ、著者による絶滅論が展開され、ここでは人新世において発生可能性が高いと著者が予測する六度目の大絶滅の徴候が論じられている。 著者も本書で述べているように「「人類絶滅」などという言葉を読んだり聞いたりするだけで、多くの人々は拒絶反応を起こすだろう」(ⅱ頁)。しかしながら、著者も本書の中で論じているように(五一八頁)、本書の目的は、人新世という困難な時代に直面する世代の精神を賦活することにある、と評者は理解している。人新世の霊性、あるいは絶滅をまえにして涵養される人間の霊性とはどのようなものになるのであろうか。本書には、人新世の時代の霊性における徴候のようなものが結晶しているように評者には思われる。(こばやし・まさひろ=立教大学兼任講師・神奈川工科大学非常勤講師・思想史・人新世研究)★ほしの・かつみ=多摩大学名誉教授・絶滅学・文明哲学・地球環境文明論・ITビジネス戦略。著書に『地球環境文明論』『これから5年、東京はこうなる』『文化・記号のマーケティング』『社会変動の理論と計測』など。一九四〇年生。