二〇世紀美術にふたたび出会うための批評 星野太 / 東京大学准教授・美学・表象文化論 週刊読書人2023年2月10日号 峯村敏明著作集Ⅳ 外国作家論・選 著 者:峯村敏明 出版社:美学出版 ISBN13:978-4-902078-75-6 美術批評家・峯村敏明の著作集の刊行が始まった。これは画期的な事業である。つねにその時代の要請に応えて仕事をする批評家の宿命として、峯村敏明の文章が、これまでまとまったかたちで読まれる機会はほとんどなかった。著書としては唯一のものである『彫刻の呼び声』(水声社、二〇〇五)も、すでに品切になって久しい。その意味で、これまで峯村が発表してきた批評が全五巻の著作集に集成されることの意義は途方もなく大きい。 その第一回配本にあたる本書(第Ⅳ巻)は「外国作家論・選」と銘打たれている。本書の「評釈と解題」と題された栞によれば、著者はみずからの著作集を「なるべく年代順に」編むことを希望していたそうだが、そのうち複数回にわたり取り上げられた作家だけは選り分けて、第Ⅳ巻「外国作家論」と第Ⅴ巻「国内作家論」の二冊に収録することになったのだという。果たしてそこで論じられているのは、イヴ・クライン、ルーチョ・フォンタナ、ジョルジュ・デ・キリコといった、この批評家が特権的な地位を与えてきた──おもにヨーロッパの──作家たちである。 峯村敏明という批評家は、いくつかの意味で例外的な存在である。第一に、それなりに数いる美術批評家たちのなかで、峯村ほど「彫刻」に特別な地位を与えてきた人間はそうそういない。前出の「評釈と解題」で松浦寿夫が指摘しているとおり、峯村は、その出発点から一貫して「彫刻という概念の検討に多くの比重を置く批評家」であった。これについては、冒頭でもふれた『彫刻の呼び声』によって、それなりに広く知られるところとなっている。 これに加えて、本著作集第Ⅳ巻「外国作家・選」が明らかにするのは、この批評家のもうひとつの例外性である。それを評者なりの言いかたでいえば、この批評家の書きものに見られる極端なまでの「ドグマの不在」である。 どういうことか。すでにのべたように、本巻には、峯村がこれまで複数回──目安としては「三回以上」──にわたり論じてきた外国作家論が集成されている。ところで、大方の批評家は、おのれの得意とする領域(時代や地域を含む)をこれと定めるや、それをみずからの信じる何らかのドグマにもとづいて裁定しがちである。それは「絵画」「彫刻」「インスタレーション」といったメディウムによるものかもしれないし、あるいは「フランス」「イタリア」「日本」といった地域によるものかもしれない。だから、普通はこうした選集にまとめられると、そこに各批評家の「持ち場」のようなものが透けて見えることが珍しくない。 峯村の批評活動もまた、そうした「持ち場」への意識と無縁ではないだろう。それでも、本巻におけるフランク・ステラ、クリスト、ヤニス・クネリス、デ・キリコ、モランディ……という独特な作家名の並びは、やはり読者に一定の当惑を与えずにはいない。すると考えるべきは、峯村をしてこれら異質な作家たちを繰り返し論じるようにむかわせた動機とは何であったか、ということである。答えは簡単だ。峯村は、これらの作家に対する表面的な(無)理解を徹底的にただすべく、繰り返しを厭わず各々の作家を論じつづけたのである。 この問題を考えるには、ジョルジュ・デ・キリコがもっともわかりやすい。デ・キリコといえば、一九一〇年代の「形而上絵画」によって美術史に名を残す大作家のひとりである。だがひるがえって、一九二〇年代にシュルレアリストと袂を分かったあとの作品は、突如アカデミックな技法に転じた愚にもつかないものであるという評価が大勢をしめていた。こうした評価に対して正面から異を唱えたのが、デ・キリコ逝去の報に接して書かれた「到着と出発の間の絵画、または港の心理学」(本書二六七―二八一頁)である。これは、デ・キリコのキャリア全体を「港の心理学」というキーワードをもとに論じたすぐれた作家論であるとともに、当時ほとんど黙殺されていた二〇年代から晩年までの作品を積極的に評価した、状況介入的な批評である。 昨今また新たに脚光を浴びているイヴ・クラインについても、没後から二〇年以上の時を経て、峯村はこんなことを書いている。やや長くなるが、この作家への手紙というかたちで書かれた「青のパトロジー」(本書一〇一―一〇七頁)の冒頭部分を引用する――「イーヴ・クランさま いまの日本では「クライン」というドイツ風の読みが定着してしまっているあなたですが、もともと柔道の修業で講道館に通っていた一九五二〜五三年ごろのあなたは「クラン」と正確に表記されていました。できることなら再度そう改まって欲しいものです。[……]名が正しくなければ死者は喚び起こせません。事物のデーモンは動きません」。 本書に収められた峯村敏明の批評は、畢竟この「名を正す」ことへの倫理に突き動かされているように思われる。ただしそこで正されるのは、むろん「名」ばかりではない。デ・キリコの「形而上絵画」にせよ、フォンタナの「空間主義」にせよ、人々は各作家の一定のスタイルをその固有名に結びつけるばかりで、その生涯を通じた苦闘の跡にはほとんどの場合一瞥もくれない。当然のことながら、それは作品を真摯に見ることとはほど遠い営みであろう。にもかかわらず、世人がこれらの作家について語る内容は、どこかで聞いた紋切り型ばかりではないか──とは明示的に書かれていないが、本書所収の批評の端々からは、そうした義憤にも似たパトスが滲み出ている。 「死者を喚び起こす」こと、あるいは「事物のデーモンを動かす」こと──峯村敏明の批評が試みようとするのは、端的に言ってこれである。繰り返すが、そこにどんな作品でも同じように裁定してくれるドグマはない。むしろそれは、人々が見ようとしない作品をあくまで虚心坦懐に見るという倫理によって、はじめて可能になる営為である。(ほしの・ふとし=東京大学准教授・美学・表象文化論)★みねむら・としあき=美術批評家・多摩美術大学名誉教授。著書に『彫刻の呼び声』。一九三六年生。