一人の孤独な批評家の集大成 樋口恭介 / SF作家 週刊読書人2023年2月10日号 SFの気恥ずかしさ 著 者:トマス・M・ディッシュ 出版社:国書刊行会 ISBN13:978-4-336-05819-5 トマス・M・ディッシュ。実験と思弁に溢れたSFの書き手であり、一九六〇年代から勃興した新たなSFの潮流、いわゆる〈ニュー・ウェーブSF〉を牽引した。SF作家であることに限らず、詩人、劇作家、ゲームデザイナー、児童文学作家としても知られ、一九八〇年に発表された『いさましいちびのトースター』はシリーズ化し、映画化もされた。つまるところその活動は多岐にわたり、ディッシュとはこういう作家である、と一言で言い当てるのは難しい。しかし一つだけ言えることは、ディッシュはその多彩な活動から受ける表層的な印象とは異なり、決して「なんでもあり」の作家などではなく、自らの審美の基準を強く持ち、審美に照らして適切な手法を採用し続けてきた作家であるということだ。そしてその特徴は批評集である本書『SFの気恥ずかしさ』に最もよく表れていると思う。 本書は様々な媒体に二五年にわたって書かれてきたディッシュのSF批評をまとめたものであり、批評家としてのディッシュの仕事の集大成とも言えるものだ。二五年という月日は長く、こういう本では通常、作家の思想的変化や文体の変化、挑戦や挫折やそれによる成熟などがアーカイブされており、読者はそれらの軌跡を辿り直す楽しさを得るものだが、驚くべきことに本書にはそうした変遷がまったくない。四一四ページある本文のどこを開いてもそこにいるのは豊かな知性と滾る情熱を原動力に、自らの美学を曲げることなく、誰の顔色もうかがうことなく、舌鋒鋭く世にあふれるSFをめった斬りにする、何かの達人めいた、一人の孤独な批評家の姿である。要するに、ディッシュという人は最初から完成されており、最初から一貫している。SFを読んで育ち、SFを愛しながら、そうであるがゆえに、子供だましで田舎者で、それでいて権威主義的でもあるSFを憎み、いつまでもそのような立場にSFを押し留めようとするSF作家とその共犯者であるSFファンを憎む。そして一方で、文学的実験や文体的洗練を重視し、既存のSFや主流文学の枠組みを超え出ようとするダイナミズムを伴う作品を称揚する。――批評家としてのディッシュは批評をする際に批評家として徹し、プロットの整合性を確認し、文体のリズムや描写の適切性を分析し、審美的観点から厳格な評価を下すが、そのようにしてディッシュが他者について語ろうとすればするほど、理解が進むのは作家としてのディッシュの態度であり思想であり、浮き彫りになるのはディッシュ自身の作品の骨格なのである。 自分の顔は自分の顔だけを眺めていてもよくわからず、他人の顔を眺めることで初めて浮き彫りになるということがある。鏡で自分の姿を眺めるとき、人は見たい自分の姿をそこに見出す。他人に撮られた写真には、普段鏡からは見ることのできない自分の顔が映り込んでいることがある。あるいは批評もそういうものかもしれない。他人について論じている自分の顔は自分では見えないが、読者はそれを他者として見る。批評集である本書には、当然ながらロバート・A・ハインラインやレイ・ブラッドベリなどの他者が多く登場するが、それらの作品の「気恥ずかしさ」について語るディッシュの批評を読みながら脳裏に浮かび上がってくるのは、ハインラインやブラッドベリの作品の印象などではなく、苦虫を嚙み潰したようなディッシュの歪んだ表情であり、聞こえてくるのはディッシュ自身の歯ぎしりの音である。余談だが、本書の原著『On SF』のジャケットには、タイトルの後ろでタトゥーがガンガン入った太い二の腕を組み、カメラに向かって笑うでもなく怒るでもない、なんとも言えない微妙な表情を浮かべているディッシュのポートレートがあしらわれている。そんなに深い意図があるわけでもないと思うが、このデザインは本書の性質をうまくとらえているような気がして、なかなかおもしろいと思った。(浅倉久志・小島はな訳)(ひぐち・きょうすけ=SF作家)★トマス・マイケル・ディッシュ(一九四〇―二〇〇八)=作家。アメリカ・アイオワ州生れ。ニュー・ウェーヴ運動の中核作家として活動。SF長篇に『人類皆殺し』『キャンプ・コンセントレーション』『歌の翼に』(キャンベル記念賞)など。