ポートレートで描く中国史/物語 上田信 / 立教大学教授・アジア史 週刊読書人2023年2月10日号 中国全史 上・下 6000年の興亡と遺産 著 者:マイケル・ウッド 出版社:河出書房新社 ISBN13:(上)978-4-309-22869-3/(下)978-4-309-22870-9 邦題は本書の魅力をまったく伝えていない。その責は翻訳者ではなく、編集者が負うべきものであろう。もし、中国の歴史の全体像を摑めるという期待を持って、この上下二冊の大著を読み通した読者がいるとすれば、その期待は裏切られるのではないか。 先史時代から一四世紀の元代までをカバーする上巻(本文三○○頁)のうち、戦国時代を扱っている箇所はわずかに六頁、三国時代にいたっては二三行が割かれるのみである。大半の日本人が中国史に期待する項羽と劉邦の戦いも、諸葛孔明の活躍も、本書ではまったく扱われることがない。本書は「中国全史」の三分の一程度を叙述するにとどまる。 本書の魅力は、邦題とは別のところにある。原題The Story of China: A Portrait of a Civilisation and Its Peopleを踏まえて、邦題を提案するとすれば『中国の物語:文明の精神と歴史を彩る人生』といったものになるだろう。申し添えておくが、中国史に関する欧文の文献を翻訳することは、人名や地名の比定など苦労が絶えないが、本書の訳文は的確であり読みやすい。 著者のマイケル・ウッド氏は、オリオル・カレッジ(オックスフォード大学)大学院でアングロサクソン史を修めており、考古学と古代史に対する造詣が深い。学位取得後にテレビのジャーナリストとして、主にBBCでドキュメンタリーの制作に携わるようになる。本書でも「映像制作の手法を取り入れ、大きな流れを保ちながら、ときには足を止めてクローズアップに切り替え、具体的な場所や時期、さまざまな立場の人々の暮らし、声などに着目」している(上巻一五頁)。本書執筆前の二○一四~一七年に、同じタイトルの番組を制作している。 考古学に対する知見の広さは、本書でも遺憾なく発揮されている。これまで「四千年の中国史」と称されることが多かったが、ウッド氏は近年の考古学上の成果を踏まえて、邦題の副題にもあるように中国の物語の起源を、二千年ほどさかのぼらせている。しかも無味乾燥な発掘報告書からの引用ではない。たとえば周口市(河南省)の淮陽区で行われている伏羲を祀る「廟会」の取材をもとに、文明誕生の物語が展開される(上巻三六~四○頁)。しかも単に訪問記に終わらず、その見聞から今の中国を見きわめようとする。 廟会の参拝者のなかの女性の一団は、そこから三○キロほど離れた女媧のふるさと女媧陵(聶堆鎮)から訪れていた。その地には新たに廟が建てられ、女媧の祭礼の時期になると、女媧が乗り乗り移った女性の信奉者たちが、恍惚のなかで踊る。女性たちは女媧は「私たちの母だ」と述べ、「私たち漢民族は、みんな同じ家族なのだから、ここは中国人の祖先の土地なのです」と言う。ウッド氏はここに、中国共産党の意図を読み取る。今日の中国では、炎帝(神農)や黄帝などを陵で廟が再建され、行事が執り行われている。「炎黄子孫」という言説は、愛国主義発揚と結びつけられる。さらに祖先を過去にさかのぼれば、その子孫の範囲は広がる。伏羲・女媧の廟会の盛況には、それを公認する政策がある。 ウッド氏は歴史を彩る人物に焦点を定め、クローズアップする。宋代の女流詩人として知られる李清照の人生を描いた部分で筆が冴える。全史ではないために、こうした記述が可能となる。たとえば一○八四年に生まれた李の人生を、本書では彼女が残した文と詩から、直接に読み取ろうとする。叙述は北宋と南宋に関する二つの章にまたがり、一五頁を当てている。全史として叙述した場合、たとえば講談社「中国の歴史」で宋代を分担する小島毅『中国思想と宗教の奔流』では、李清照について「彼女を宋代女性の典型例としてしまってもよいものかどうか、それはまた別の問題である」とされる。全史において特異な人物は、ノイズなのである。 豊富な史料が残る明代以降の「中国の物語」を取り上げる下巻では、さらに多くの人物が取り上げられる。「伝統的な儒教の枠組みのなかで、中国の王朝組織を、それどころか皇帝制自体を容赦なく批判した」明末の思想家の黄宗羲(下巻四二頁)、一七世紀の江南を魅力的に案内する張岱(同四八~五三頁)、明朝が滅亡し満洲人の清朝へと激動するなかにあっても思索を止めなかった方以智(同四九~五三頁)など。これらの人生から、今日にいたるまで中国社会における知識人の生きづらさが浮き彫りにされていく。 女性の人生に着目する点も、本書の特色となっている。李清照のほかに江南から満州人に連れ去られた劉夫人と娘との往復書簡(同七七~七九頁)、二○世紀に家父長制度を批判した何震の思索(同一八九~一九一頁)などが、印象深い。 ときに政治の潮流に抗したさまざまな人生が、浮かび上がる。いまの中国政府がどうであろうとも、「中国人を過小評価することは長期的に見て愚かなことである」(同二九六頁)。本書はいままさに読むべき一冊であるといえよう。(須川綾子訳)(うえだ・まこと=立教大学教授・アジア史)★マイケル・ウッド=歴史家・映像作家。マンチェスター大学教授。ドキュメンタリー作品に「The Story of China」など。一九四八年生。