教育論と文化論と音楽論と身体論の融合 土佐有明 / ライター 週刊読書人2023年2月17日号 学校するからだ 著 者:矢野利裕 出版社:晶文社 ISBN13:978-4-7949-7343-6 『学校するからだ』は、中高一貫校の国語の教師でありながら、批評家としても健筆を振るう矢野利裕の新刊。教育論と文化論と音楽論と身体論をまたぐ、ちょっと類例が思い当たらない書物だ。著者はサッカー部の顧問でもあり、冒頭から部活を筆頭に様々な身体運動に言及してゆく。特に興味深いのが、試合での作戦にまつわる記述。戦術が高度化している現代のサッカーにおいては、チーム内では細かな約束事が数多く存在する。 だが、一方で、メッシやロナウジーニョがそうであるように、いち選手の我儘だが独創的なプレイで、試合の局面が一気に変わることがある、と著者は言う。組織が整えられているからこそ、個人の自由が発揮できるのだろう。著者はそれを、民主主義の理想型に見立ててみせる。実に射程の長い論説だ。 本書によると、マーチに合わせた運動会の行進から、ラジオ体操、合唱、お遊戯的な振り付けまで、合図としての音楽は、本質的に身体の統率を意図したものであるという。生徒は教師が出す合図にすばやく反応し、言われるがままに動くことを求められるわけだ。 サッカー部以外の部活動はどうか。著者はダンス部を例に挙げている。ブレイクダンスやヒップホップのダンスは、バックの音楽から少しずれたところにクールなかっこよさがあると言う。ただ集団で盛り上がるのでもなく、一体感を得られるというのでもなく、ほんの束の間、学校教育のお約束を内側から食い破る光景に、著者は幾度となく胸を撃たれる。 吹奏楽部も負けてはいない。著者は予想以上に本格的なスウィング・ジャズ風のアレンジに感嘆する。そして、学校唱歌のスタンダードである「故郷の空」の躍動的なシンコペーションに、またしても規範をはみ出してゆく身体を見る。音程通りに歌えない、うまくボールを蹴れない。あるいは、声が上ずったり、音が外れたり、足がもつれたり、転倒したり。これらは、「失敗」として簡単に片づけられるのだろうか? 著者はそう無言裡に訴えているように思える。 このトピックは幾つかの見識に接続できる。例えば、伊藤亜沙の『どもる体』(医学書院)では、身体が外部からのコントロールが外れた状態を、その人らしさの表出として記述している。そもそも、人間の身体は思い通りにならない。肉体が吃音じみてしまうこともある。コントロールが外れるのは確かに怖い気もするが、私たちは元からそういう身体を抱えている。そもそも、生命の根幹である心臓の鼓動すら、勝手に動いているのだから、というのが伊藤の主張である。 また、批評家の桜井圭介は『「ダンス」という「コドモ身体」』というネットでも閲覧できる論考で、肉体的なコントロールから解放されたダンサーらの姿を「コドモ身体」と呼んだ。己の身体に過不足なく力を働かせることが出来ず、重心移動などがままならないような身体。正確でスムーズな動きの正反対にあり、ブレたり軋んだり、つっかかったりするダンスや身体運動にこそ、桜井は可能性を見出している。 一方、矢野は、何かというと教師につっかかってくる生意気な生徒について、その存在そのものが学校への挑発であるとしながらも、その生意気さも個性のひとつと捉え、決してあしざまに言うことはない。この本は矢野にしか絶対に書けなかっただろう。そして、読者は気づくと、矢野の生徒になったような感覚を味わうことになる。教員にして批評家という特殊な立場にいる彼の、思考/指向/志向の軌跡を追体験させてくれるのが本書の醍醐味なのだから。 個々の授業については措くが、生徒にものを教えるのは、多少演技をするくらいの温度でちょうどいい、という意見にも首肯した。ある意味ヒップホップのMCのような役割を担う教師は、多少わざとらしいパフォーマンスをしても違和感はない。 筆者が通っていた高校でも、ものまねされる教師ほど、型破りで人気者だった印象がある。矢野ももしかしたら、学校ではものまねされること必至の名物教師なのかもしれない。一度でいいから、彼の授業を受けてみたい。本書を読み終えてそう思ったのは筆者だけではあるまい。(とさ・ありあけ=ライター)★やの・としひろ=都内の中高一貫校に勤務する国語教員。著書に『今日よりもマシな明日文学芸能論』『コミックソングがJ-POPを作った』『ジャニーズと日本』など。一九八三年生。