千葉一幹 / 大東文化大学教授・文芸評論家 週刊読書人2023年2月17日号 太陽諸島 著 者:多和田葉子 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-529185-6 ベネディクト・アンダーソンが、『想像の共同体』で指摘したことは、近代国家を支えるナショナリズムは、国語とそれに依拠した国民文学によって形作られたということだった。であるならば、ある国の言葉で文学作品を創作する者は、好むと好まざるとに関わらず、ナショナリズムの生成・存続に与することになる。日本語とドイツ語という二つの言語で創作を続ける多和田葉子は、こうしたナショナリズムと文学および言語との関わりに最も意識的な作家の一人である。 三部作の完結編であり、留学中に母国が消失したとされるHirukoのため、彼女の生まれ育った国を訪れようと船旅に出た、六人からなるHirukoら一行の姿を描いた『太陽諸島』においても、多和田は、このナショナリズムの問題について登場人物に語らせる。 一行の一人であり、ドイツに留学中のインド人でトランスジェンダーのアカッシュは、同じ船に乗るポーランドからアルゼンチンに移り住んだヴィトルドに移住の理由を問う。するとヴィトルドは、自国にいるとお国自慢話に始終晒され、知らぬうちに愛国者になってしまうが、そうならないために自分が生まれ育った環境から離れる必要があったと言う。この答えにアカッシュも呼応する。インドを離れて初めて、イギリスの植民地支配により貧しさに沈むインドの独立を目指し糸車を回したガンジーの話を聞くと胸が熱くなるようになったと言うのだ。「コスモポリタンでも愛国心に火が付く」スイッチがあるのだ。 大学卒業後、ドイツに渡った多和田自身、ヴィトルドに近い立場にいると言える。しかしまた、多和田にも「ガンジーの糸車」に当たるものがあるかも知れない。いや多和田によれば「ある言語で小説を書く」ことは「その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出して見せること」(『エクソフォニー』)であるのだから、そうした意図で生み出される多和田の小説自体、「日本語」に新たな富をもたらす「愛国」的試みと言えなくもない。 そもそも、本作で描かれる、消滅したかもしれない日本を目指して船に乗ったHirukoたち一団の行動自体、ナショナルな側面がどうしても見え隠れする。もちろん、多和田自身そうしたことに自覚的であるからこそ、Hirukoに日本へ向かおうとする自身の思いを「ホームシック」でもなければ「フェルウヴェー」すなわち「遠方への憧憬」でもないとその心中を語らせている。 なにより、Hirukoたちの乗った「バルトの光」という船は、リューウゲン島、カリーニングラード、リガ、サンクトペテルブルグ等に寄港しバルト海を周遊するのが目的で、消滅したかもしれない日本のある東アジアへ向かうものではない。『太陽諸島』の前作の『星に仄めかされて』の終盤で、Hirukoのために、地中海からスエズ運河を抜けアカッシュの故郷のインドを経由してアジアに向かうと示唆されていたのにだ。この方向転換には、失われた国を目指す旅というテーマが喚起せざるを得ないナショナリズムを脱色させようとする意図があるだろう。 しかし、ナショナリズムを出来れば脱臼させんとする本書が重要なのは、むしろナショナルなものを厭わず、それに直面しようとし続けるところにある。なぜなら、本書の元になった『群像』連載時に、ロシアによるウクライナ侵攻という、最もナショナリズムを高揚させる戦争が発生したからだ。 ウクライナでの戦争発生時に書かれたと考えられる第八章での、「言語では戦争を防げないと知って絶望して黙ってしまった人もい」るというフィンランドの作家の言葉は痛々しい。だが、ナショナリズムの基盤となる「家」に「イイエ」と言いつつ、皆の新たな「家」たらんとする、最終章でのHirukoの言葉は、悪性のナショナリズムを回避しつつナショナルなものに向き合おうとする多和田の決意の表れとも読め、ナショナリズムを最も勃興させやすい戦争下にある今だからこそ、とりわけ貴重である。(ちば・かずみき=大東文化大学教授・文芸評論家)★たわだ・ようこ=小説家・詩人。著書に『犬婿入り』(芥川賞)『容疑者の夜行列車』(伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞)『雪の練習生』(野間文芸賞)『雲をつかむ話』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞)、『献灯使』(全米図書賞翻訳文学部門、朝日賞)など。一九六〇年生。