「負債」と「贈与」とに内包されるもの 古賀暹 / 元『情況』編集長 週刊読書人2023年2月17日号 価値論 人類学からの総合的視座の構築 著 者:デヴィッド・グレーバー 出版社:以文社 ISBN13:978-4-7531-0371-3 グレーバーの価値論に私が興味を覚えたのは、本書の帯に酒井隆史さんが「現代の経済学批判」と記していたためである。言うまでもなく、経済学批判と言えばマルクスの代名詞のようなものだ。マルクスを傍らに置き、その価値論と永らく付き合ってきた私には放っておけないものだった。もともと、私は、グレーバーが『負債論』で、古典派経済学が商品交換の起源を物質的な利己心に動機付けられた「物々交換」に求めているのは「神話」であると批判しているのに全く同感であった。だから、その『負債論』以前に書かれたという本書を求めたのである。 では、グレーバーの価値論においては、未開社会は自給自足経済だったというのだろうか。いや、そうではない。物資相互の交換は行われていたが、そこに登場してくるのは、物々交換よりも、もっと広い概念である「贈与交換」でもある。しかも、それは集団相互の交換を主にしたもので、他集団に対して、戦争か平和かという選択をせまるものでもあった。現在で言えば、ウクライナ戦争のようなものを防止するための贈り物であった。この贈与が、他者との関係を築いたのである。それが相手の贈与に対してそれ以上に豪華な返礼を持って報いる競合的(ポトラッチ)交換を生み出しもしているが、同時に、そうした贈与がきっかけとなり個人間での市場的な関係をも生み出すことになった。 ところで、グレーバーが中心的に論じているのは、これらの贈与交換の根底に存在するお返しの義務ということだ。「遅れた社会においては、贈り物を受け取るとお返しをする義務が生ずるのだろうか、贈与されたモノはどういう力があって、お返しをするように仕向けられるのだろうか」という『贈与論』のモースの問いである。マオリ族の人たちは、その問いに「贈られた物には、贈り手のハウ(魂)がこもっており、それにお返しをしないと、ハウに罰されるからと言い、更に、森は彼らに鳥を贈ってくれるが、その森が養ってくれた鳥に対してもお供えをする」と答えたという。 この「返礼の義務」が、自己の利益しか考えない市場経済に発展していくこととなったわけだが、ここでグレーバーは立ち止まる。モースがやりかけた贈与関係の分析の中には「全体的給付」という観念も含まれていたと力説する。つまり、「返礼の義務」に基づく交換形態から市場経済的なものも出てくるが、また、それとは別のものにマリノフスキーのクラ交換や、レヴィ=ストロースの「循環的婚姻体系」もあり、それらとも異なったものとして家族共同体内の無限定な交換があった。これをグレーバーは「全体的給付」の関係と名付ける。「近親者相互のあいだには、無制限の責任がある、一方は他方のために助力を惜しまないが、それは返礼を期待しているからではなく、ただ、自分が同じような危機に陥ったときに他者も同じようにする」という関係だ。ここでは、商品交換のように、自己利益の追求ということも、返礼してしまえば相手との関係がなくなってしまうこともない。関係は全体的であり永続的なのだ。これをコミュニズムの原理だという。 一方、マルクスは「資本論」において、この「全体的給付」関係を残存させていた共同体の完全な崩壊によって、そこから放り出され孤立した人間を問題としている。(こうした「全体的給付」の残存については、私は、落語の「掛け取り」を思い出すのだが、江戸時代には、借金の清算は大晦日であり、その日を過ごせば新年には「掛け取り」に追い回されずに済んだらしい)。ところが、この共同体が崩壊すると、人々を繫ぐのは商品でしかなくなる。そこで、商品という物体が自己の使用価値以上の何ものかにならねばならなくなる。商品の二重化である。マオリ族がハウ(魂ないしは聖霊)と呼んでいたモノのように、使用価値が交換価値を持つのだ。グレーバーが未開社会から引き出してきた「返礼の義務(価値)」と「全体的給付」を私はこのように位置づけてみた。 話は飛ぶが、グレーバーは本書のいたるところで、この概念を根底にしつつ、さまざまな未開の構造を分析して見せてくれている。だが、それだけではない。彼は「静止したものとして歴史をとらえる」パルメニデス的世界を超えて、流れるものとしてとらえるヘラクレイトス的思考を強調する。考えてみれば、商品にしても、ハウにしても、行為(労働)や魂がモノ化した静止的なパルメニデス的な世界なのだ。本書は、どの章をとってもそれぞれが議論に値するものであり、息をつかせないものであった。(藤倉達郎訳)(こが・のぼる=元『情況』編集長) ★デヴィッド・グレーバー=人類学者(一九六一―二〇二〇年)。一九九六年シカゴ大学大学院にて博士号(人類学)を取得。邦訳に『ブルシット・ジョブ』『民主主義の非西洋起源について』『官僚制のユートピア』『負債論』『デモクラシー・プロジェクト』など。