その文学に挑み続ける、僧の修行のような文芸評論 長瀬海 / 書評家 週刊読書人2023年2月24日号 古井由吉 永劫回帰の倫理 著 者:築地正明 出版社:月曜社 ISBN13:978-4-86503-156-0 「永劫回帰の倫理」という副題が付けられていて、西洋哲学の知を踏破しながら古井由吉の解釈に結びつけるような厄介な本なのだろうかとおずおずとページをめくったが、そうではないみたいで安心した。いや、読み進めていくと、むしろこの「そうではない」というところが、この本の比類なき魅力であることに気づかされ、慄いた。つまり、この本は古井由吉の小説、エッセイ、対談の言葉以外の何ものにも頼らず、あるとすれば著者の粘り強い思考力だけで、難解さと果てしない深さを持ち合わせた古井由吉の文学に挑み続ける、僧の修行のような文芸評論なのである。 全部で十一個の章があるのだけど、とにかく何でもいい、例えば、「病者の光学と「私」の消失 ――『山躁賦』について」という三つ目の章を見てみようか。 連作短編集『山躁賦』(一九八二年)は、神社仏閣や霊山の数々を歩いてまわる〈私〉の眼差しに映る風景を描写しながら、そこここで古典文学が引用され、紀行文としては特殊な文章を織りなしていくうちに、〈私〉の輪郭が融けていく、つまるところ、なかなか読み解くのが難しい作品だ。そんな難儀なテクストを前に、著者は主人公が〈病みあがり〉であることに着目し、〈私〉の意識が不確かななかで起きる〈空間感覚の失調〉を精緻に読み取り、そこから〈急性のアイデンティティ失調〉を経験するさまを看取する。そして、そうした読解のなかで本作を貫く〈心と体、空間と時間(記憶)にかかわる深刻な危機〉という重要なテーマを摑む。さらに、以上の作品の本質的な核に触れながら、テクストのなかには決して現れることのない、死者を、かつての空襲のおびただしい犠牲者の存在を、透視していく――。 およそ古井由吉の文学を、その精髄から枝葉の部分まですっかり知悉していなければありえないほどの、強靭な読み。それは、古井の文学を語る上で欠かせないエッセイズムを〈精神の「運動」そのものが取った、「強いすがたかたち」〉=〈存在の運動〉を表すものと受け取り、古井の〈存在と認識にかかわる強力な思考〉の軌跡を、型に嵌めることなく、愚直に追いかける際にも発揮される。だからこそ、著者は〈試行〉あるいは〈試文〉と翻訳されうる古井の批評性を帯びたエッセイ、そして小説が向かう先に浮かぶ、先の戦争を始めとした厄災で命を落とした無数の死者の姿を悠然と見つめることを可能とさせているのだ。 古井の文学には〈眩暈を起こさせるような〉一種の〈反復〉がある。初期から晩年までずっと空襲の光景が描き直されること。〈持続と切断、生起と消滅、瞬間と永遠が、恐怖の中で入れかわり立ちかわり現れ〉ること。古井由吉は、著者がいうには、言語を〈論理、構造、意味〉すなわち〈知性〉で、また、〈音楽性や「音律」〉すなわち〈情念〉の二面で捉えるのだが、〈ふたつの相反するはずの事柄を同時に肯定する〉古井の文章は、絶えざる〈反復〉のなかで融解していく。そんな強度の高い読解を展開する著者が、本書の主題である〈永劫回帰〉の様態を見事に摑み取るのは、その果てだ。 〈過去が完全に過去とはなりきらずに、現在とくりかえしひとつになろうとする、あるいは過去が反復して、現在へと永劫にわたって回帰する、いや、それどころか未来さえもが現在に吸い寄せられ重なろうとする、そのような特異な時間を、作家古井由吉は生きた。〉 こうした思考的な粘度のある議論を気鋭の「内向の世代」研究者の李承俊の言説と結びつけるのも面白いだろう。李承俊は『疎開体験の戦後文化史』において疎開体験を戦争体験の語りとすることの可能性―不可能性を巡りながら、戦争と田舎の問題を考察した。そこで、内向の世代が〈自己の空位〉〈不確かな私〉を問題意識として共有していたことを論じている。 二人の議論は空襲を経験した文学者の「生の不安」を巧みに言い当てている。ここから新しい戦後文学論が産声をあげるのを期待したい。(ながせ・かい=書評家)★つきじ・まさあき=立教大学、武蔵野美術大学、京都芸術大学ほか非常勤講師・造形文化・美学美術史。著書に『わたしたちがこの世界を信じる理由『シネマ』からのドゥルーズ入門』など。一九八一年生。