しなやかな言葉で植物と人間の営みを描く 堀千晶 / 仏文学 週刊読書人2023年3月3日号 植物考 著 者:藤原辰史 出版社:生きのびるブックス ISBN13:978-4-910790-07-7 いつ頃からなのか、厳密には定かでないが、「思想」は他者中心に回ってきた。たとえば、理性にとっての「狂気」、人間にとっての「自然」や「動物」、男にとっての「女」、マジョリティにとっての「マイノリティ」。そして、この他者じたいが内部から複数化・多元化されてゆく。たとえばデリダは、「動物」をつねに複数形で考えなければならないとし、フェミニズムは「ジェンダー」を多様な交差性のもとにとらえる。そうしていつしか、「中心」を置くという行為そのものが、解体されてゆく。この世界には中心などなく、他様かつ多様な存在のしかたが、無数の層をなして、複雑に交錯しているのだ、と。 こうした思想史の流れを踏まえつつ、「動物論」の興隆のあとで、「植物性」を論じること。本書は、人間にとっての他者である動物、よりもさらに他者である「植物」について、博学で知られる「農」と「食」の専門家が考察した試論である――と、このようにするりとまとめたくなる向きもあるかもしれない。けれども、石内都によるバラの写真を表紙に掲げる本書の、あまりに多様な「植物」たちの生態には、こうした要約はどこかそぐわない。何より「生命とは摩擦である。ざらつきとは存在である。ひっつき虫がセーターにからむ、あの引っかかりである」といわれる、その「ざらつき」にまだ触れていないような気がするのだ。 広範な読書に裏打ちされた逸話や、生活者としての心情がさりげなく、本全体の風通しをよくするかのように盛り込まれているから、というだけではない。『分解の哲学』は「掃除のおじさん」の印象的な挿話から説き起こされていたが、本書ではたとえば、著者の研究室の様子。「次々に気根を伸ばし、ありもしない土壌を求めて」、「空中をまさぐる」植物のダンスが活写される(第七章)。さらに「歩く植物」といわれるガジュマルの描写からは、足音というか、垂れた枝が地面に挿し込まれてゆき、やがて根となる、その「小さくて、弱くて、小刻みな動き」が立てる、緩慢な地響きが聞こえてくるようだ(第一章)。あるいは、もし人間の親が自分の子供に対して、植物がしているのと同じようなことをしたら……というSF的な妄想も、ところどころに差し挟まれる(第八章)。硬軟織り交ぜられる語り口は、まるで自身の語る様々な「植物」に擬態しているかのようで、言葉はのびやかだ。 喚起力の強い描写の数々はいつしか、環境破壊、乱開発、帝国主義、戦争への批判や、暴政に対して食料を育てながら「立てこもる」ハンナ・ヘーヒの「持久戦」と結びつき、抵抗の言葉を「播く」運動へもつながってゆく。「農」の歴史家である著者は、時代への鋭い批評精神を伴いながら、植物を取り巻く「人間」たちの文化的な、文化破壊的な営みを、克明に浮彫りにする。戦車と農業の関係を語る『戦争と農業』にもあったように、人間の営みを通して、愚かなものも、幸福なものも、ささやかなものも、大規模なものも含めて、連鎖が到るところに生まれている。そうした大小様々の結節点は巧みに拾いあげられ、一つひとつの事象がつぶさに調べられ、粘りづよく言葉に変えられてゆく。 つねに見据えられているのは、様々なものが境界を超えて、交流しあう場だろう。たとえば、アカデミアの内外を問わず、詩・科学・政治などを横断してゆく、広い意味での学者が栄える場。そこでは、「文系」と「理系」――それぞれ複数形であり多元的である――は、おのおのの持つ「隙間」で接続されるにちがいない。また植物と人間(さらには建築や機械)とのちがいも曖昧になるなら、どれもまるで植物のように「勇ましいというよりは、しなやかで」、「冒険」的になる瞬間が、ふいに訪れるのかもしれない。「「人間」という概念を内なる植物性から打ち破る精神的な探検」。等閑視されてきた「植物」に光をあてながら、暴風のなかを生き抜く生や、知の営みの刷新をも、粘りづよくしなやかに描きだすこと。その語り口は柔らかく、射程は広く深い。(ほり・ちあき=仏文学)★ふじはら・たつし=京都大学人文科学研究所准教授・農業史・食の思想史。著書に『ナチスのキッチン』『給食の歴史』『分解の哲学』『食べるとはどういうことか』『縁食論』『歴史の屑拾い』など。一九七六年生。