「書く私」と「生きる私」への眼ざし 樋口良澄 / 批評家 週刊読書人2023年3月3日号 私のことだま漂流記 著 者:山田詠美 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-529591-5 初めて書いた小説『ベッドタイムアイズ』(一九八五)で文藝賞を受賞、鮮烈なデビューを飾り、以来活躍し続ける著者の自伝小説である。これまでにも「熱血ポンちゃん」シリーズなど、実体験をもとにした著作はあったが、本書は北関東で育った幼少期から作家として活動する現在まで、「書く私」と「生きる私」の関係を詳細に問い直す。 大きな影響を受けた子供時代の読書体験に始まり、家族や同級生との関わり、漫画家生活、スキャンダル報道に追われたデビュー前後、文壇交流術などが描かれる。それだけでも興味をそそられるが、生活者と作家の視点が交差し、自らをいさめ、あるいは笑いとばし、時に深い洞察を語りもする文体は、作家という存在のダイナミズムをなまなましく伝えて思わず引き込まれる。 「自分を小説家たらしめているものがなんであるかを検証して、いったん仕切り直してみる」と最初に書かれている通り、本書は単なる回想ではなく、作家としての新たな出発を探る試みでもある。オリジナルは「毎日新聞」日曜版「日曜くらぶ」に、二〇二一年から二二年にかけて連載された。その紙面は、かつて著者が二〇代の頃、宇野千代が「生きていく私」を連載した紙面だった。当時の著者はそれを愛読、小説を書こうとし、宇野を「先生」と定める。しかしすぐには書けない。自分自身の中に育った眼が、書いたものを認められないからだ。それから四〇年たち、自分の「生きていく私」を同じ紙面で書こうとして、当時八四歳だった宇野と自分を引きくらべ、まだ回想を書く時ではないと思い至り、連載の形が定まった。 ただ一つ残念なのは、毎回内容をふまえた黒田征太郎さんの楽しい挿画が連載時に掲載されたが、それが見れないことだ。カバー挿画はその第一回のもので、全体はまだ「毎日新聞」のHPで見られるのが幸いである。 山田詠美は特異な作家である。物語は性、人種、国境を自在に越え、純文学とエンターテインメント、直木賞と芥川賞といった既成の制度にとらわれず、ブレることがない。描かれる世界の背後に、いつも大いなるものを抱えているからだろうか。それは「愛」だったり、「成長」と「喪失」、「官能」や「死」、時に「文学」そのものだったりする。それゆえ倫理的ととらえられたりもするし、反転して、世の規範を突き破るラディカルさが「スキャンダル」となって襲いかかることもある。しかしそれは、作家にとって本来求めるべきものを妥協せず追求しているからだということを、本書はよく伝えてくれる。八〇年代から現在まで、文学の「コア」と「ボーダー」が一人の作家に現出した歴史がここには記されているのだ。 それにしても、本書に描かれている、かけらのような記憶をどうしたら保持することができるのだろう。小学校の時、母親の使いで買いに行った新刊の雑誌の匂い。いじめを受けた時の集団心理のおぞましさ。記憶は感情と結びつき、物語に変身し、山田詠美という作家を作っていく。私事になるが、筆者は編集者として短期間、初期の著者の担当となったことがあった。その時聞いた、デビュー前後の話の十分の一もまだ書かれていない。いつか続編を読める日を心待ちにしたい。(ひぐち・よしずみ=批評家)★やまだ・えいみ=作家。著書に『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』(直木賞)『風葬の教室』(平林たい子文学賞)『A2Z』(読売文学賞)『風味絶佳』(谷崎潤一郎賞)『ジェントルマン』(野間文芸賞)、「生鮮てるてる坊主」(川端康成文学賞)など。一八五九年生。