フランス現代哲学を存分に盛り込んだ考察 渡名喜庸哲 / 立教大学准教授・フランス哲学・社会思想史 週刊読書人2023年3月3日号 政治的身体とその〈残りもの〉 著 者:ジャコブ・ロゴザンスキー 出版社:法政大学出版局 ISBN13:978-4-588-01151-1 本書は、現代フランスの哲学者ジャコブ・ロゴザンスキーによる「政治的身体」を主題とした論集である。ロゴザンスキーは、フッサールからメルロ=ポンティを経てミシェル・アンリに至る「身体/肉」の現象学に一貫した関心を示しつつ、他方で、メルロ=ポンティの弟子でもあった政治哲学者クロード・ルフォールがカントローヴィッチらの仕事を継承して展開した「身体」としての政治体をめぐる思索からも大きな影響を受けている。さらに、デリダを中心に創設された国際哲学コレージュのディレクターを長年務めたほか、ジャン=リュック・ナンシー、フィリップ・ラクー=ラバルト、ジェラール・ベンスーサンらとともにストラスブール大学哲学科の一翼を占め、現代の社会的・政治的な問題についても多くの考察を発表している。デリダ、ナンシー以降、現象学および政治哲学の両面で活躍する現代フランスの現役の哲学者である。 日本でもすでに現象学分野での主著『我と肉――自我分析への序論』や、参加した論集『崇高とは何か』の翻訳が見られるが、本書はその政治哲学的な関心の焦点である「政治的身体」をめぐるものである。ただし、既刊書籍の翻訳でなく、『我と肉』の翻訳者であり自身も政治哲学と現象学を架橋する研究をおこなってきた松葉祥一がロゴザンスキー本人との相談の上で、関連する七つのテクストを独自に編んだものである。 ホッブズ『リヴァイアサン』の扉絵が象徴的に示すように、国家のような政治的共同体を考えるときつとに「身体」は特権的な形象となってきた。フランス革命における国王の処刑とともに、こうした「王の二つの身体」という機構によって支えられてきた国家間が解体し脱身体化が進んだとも言われるし、あるいは、日本における「国体」や「国家有機体説」のように国家のメタファーとして身体が用いられることもある。だが、具体的には「政治的身体」についてどのように考えるべきなのか。私たちの社会は、かつてのようには「身体」的ではないようにも見えるが、とはいえ「身体」という形象は、いっそう根源的なかたちで、私たちの政治のあり方、共同体のあり方をいまもなお支えているのではないか。しかもそこではつねに「残りもの」が、そこから排除されると同時に必要とされているのではないか。本書は、こうした問いに対し、かつての師クロード・ルフォールの政治哲学を批判的に継承すると同時に、フッサールおよびメルロ=ポンティの「肉」の現象学に基づき、根源的な考察を示す。 冒頭に置かれた「日本の読者へのメッセージ」は、本書全体の見取り図を提供してくれる。第一章「世に生まれ出ること」(初出は二〇〇八年)では、九つのテーゼのかたちで、〈政治的なもの〉をめぐる著者の立場が示される。第二章「身を捨てた政治 デリダによる「民主主義」について」(初出は二〇〇二年)では、デリダの「来るべき民主主義」という発想に事寄せつつ、民主主義の問題が「身体」の図式を引きずっていることが強調される。第三章「「酔っぱらいの話のように……」 歴史の肉と政治的身体」(初出は一九九四年)は、本書の理論的な中心であり、フッサールおよびメルロ=ポンティの「肉」の現象学からどのように歴史や政治の身体性の問いが開かれるかが論じられる。 以上三章が理論的な枠組みを提示するのに対し、後半は具体的な主題をめぐってその理論の射程が示される。第四章「普遍の残りもの パーリアと不浄の棄却」(初出は一九九八年)では、インドにおいて「不可触民」とされた「パーリア」が、ラカンのいう「外密性」のようなかたちで、共同体から「おぞましいもの」として外部に排斥されていると同時に内部に留まる点に焦点が当てられる。第五章「「われわれのなかのよそ者」 恐怖政治とその〈敵〉」(初出は一九九五年)では、フランス革命期が主題となる。フランス革命における国王(という国家的身体の「頭」)の処刑=切断は、中世の神学的政治からの断絶のように語られてきたが、ロゴザンスキーは、ジャコバン派のビヨー・ヴァレンヌの言説に注目しつつ、「身体」の形象がかたちを変えて引き継がれていることを論じる。第六章「「私に触れるな」 エピデミックの時代における可逆性の経験」(初出は二〇二〇年)は、最近書かれたものであり、副題のとおりCOVID-19感染症拡大が「我に触れるな」という接触の禁止という観点から分析される。末尾に置かれた「〈法〉から〈自我〉へ ロゴザンスキーとの対談」(初出は二〇〇五年)は、ロゴザンスキーの経歴や研究の関心の移り変わり(とりわけカント研究から現象学研究への移行)が見通せるようになっている。 こうして本書は、まさしく「政治的身体」がどのように「残りもの」との関係で形成されているのかについて、思想史、政治哲学、現象学をはじめ、フランス現代哲学の議論を縦横に吸収しながら、独創的な思考をあみだしている。今日の私たちの「社会」がどのようにして「身体」的であるのか、そこにおいてどのような「他者」が「おぞましいもの」、「触れてはならないもの」として排除されていると同時に内包されているのか。こうした問題を考えるにあたっても、きわめて優れた参照項となるだろう。この観点からは、自らの身体の内奥に「他者」の心臓を移植した経験から、「他者」の侵入を受け入れることの政治的な含意を考察したジャン=リュック・ナンシーの『侵入者』は改めて読み直されてよいだろうし、あるいは逆に、身体の図式から解放された政治のあり方を探るためには、近年ようやく邦訳が出た、ルフォール以降のフランス政治哲学を代表するミゲル・アバンスールの『国家に抗するデモクラシー』と並べて読むこともできるだろう。 ただ、収められた論考の多くはほぼ四半世紀前のものであることにも留意する必要がある。ロゴザンスキー自身は存命でいまなお勢力的に活動しているが、その間、フランス現象学研究や政治哲学研究では新たな論点がさまざま提示されている(たとえば、本書ではデリダが扱われているものの、晩年のデリダが提示した「自己免疫」的な民主主義という概念には触れられていない)。あるいは、この四半世紀間での情報技術の飛躍的進展は非接触型社会への移行をすでに準備していたが、もちろんそうした経緯も踏まえられてはいない。とはいえ、さまざまな「他者」が「体」内に同居すると同時に、遠隔技術がいっそう社会実装化され非接触化が進むこの社会を考えるとき、本書が示した図式はいまなお重要な手がかりを与えているだろう。(松葉祥一編訳、本間義啓訳)(となき・ようてつ=立教大学准教授・フランス哲学・社会思想史) ★ジャコブ・ロゴザンスキー=ストラスブール大学哲学科名誉教授・哲学・形而上学。国際哲学院元プログラムディレクター。邦訳された著書に『我と肉』。一九五三年生。