現実にこそ力を及ぼす空想 川村のどか / 文芸批評家 週刊読書人2023年3月10日号 私と言葉たち 著 者:アーシュラ・K・ル=グウィン 出版社:河出書房新社 ISBN13:978-4-309-20872-5 本書には主に二○○○年から二○一六年の間に発表された講演の書き起こし、エッセイ、書評が収められている。その中でル=グウィンが一貫して問題視するのは、純文学が自身を特権化するにあたって、ジャンル小説や女性の書き手を周縁化してきた歴史だ。それは単に彼女自身がファンタジーやSFの書き手であり、女性の書き手だからではない。文学のヒエラルキーをめぐる光景には、中絶禁止法をめぐる光景と同じ陰影が潜んでいるからである。 一九五○年代、人口中絶が違法行為だった時期に作家は中絶を経験した。中絶反対論者に従って望まぬ妊娠を受け入れていたら、自分の人生は今のようにはなっていなかった。本書の中でそう語る彼女は、中絶という言葉に、女性が人生を選択する「権利」の意を読む。他方、中絶反対論者はまったく同じ言葉に「殺人」の意を与えようとする。作家の文章の背後では、同じ言葉をめぐって解釈の戦いが繰り広げられているのだ。ただし、社会的なその戦いは、決して対等な立場で行われるわけではない。言葉の狭間で女性は、ある瞬間、自分の身体の中に胎児の鼓動を感じる。そのとき、女性は「権利」による「中絶」に「殺人」を読んでしまう。一つの言葉がまったく異なる二つの極の間に引き裂かれ、心に裂傷を刻みつけられる。中絶反対論者は、このような苦しみが生じ得ない安全圏で頑なな主張を繰り返すのである。 本書の中で人間を「言葉の種」と呼ぶル=グウィンは、言葉をめぐって他者を傷つける者たちが、「想像力」によって共存し得る可能性を決して諦めようとしない。ここで作家が「想像力」と呼ぶのは、二項対立では捉えられない複雑な人の心の機微を掬い上げる力、現に生じている危機、またはこれから起きようとしている危機を思い浮かべる力、その境遇に置かれた人の苦しみに共感し、現実に働きかける力を指している。それは何よりも、現実にこそ力を及ぼす空想である。時にファンタジーなどのジャンル小説や女性の書き手によって、そのような「想像力」が担われてきたことを、ル=グウィンは鮮やかに論じてみせる。トーベ・ヤンソンやヴァージニア・ウルフを扱った文章がその最たる例証だろう。 しかしリアリズム小説を頂点とする文学のヒエラルキーにおいて、ジャンル小説や女性の書き手は、真剣に読むに値しないものとして位置づけられてきた。文学賞や批評家の黙殺によって、大半の書き手は忘却の淵に沈んでいったのだ。ル=グウィンの散文は、文学のヒエラルキーが「想像力」を周縁化してきた光景を、尖ったスポット・ライトのように明るみに出していく。 中絶反対論者が「想像力」を拒絶することで自分の主張を維持するのだとしたら、文学のヒエラルキーは彼らと共犯関係を結んでいる。本書の中ではそのようなヒエラルキーの番人として、批評家が繰り返し俎上にあげられる。ここで批評家としての私が殊勝な態度を演じてみせ、ル=グウィンの言葉に肯じたとしたら、それはどうしようもない欺瞞だろう。無数の怨嗟を伴う忘却された者の歴史を背負い、作家が放った言葉をこの身に受けるためには、中絶の過程にいる女性と同様の危機を自分自身に差し向ける必要がある。自分の言葉がまったく異なる二つの極の間に引き裂かれ、裂傷を負うことを自覚していかなければならないのだ。 たとえばノーベル文学賞の候補者について、エンターテイメント作品の書き手は選ばれないものと、暗黙理に納得していること。ジャンル小説を積極的には扱ってこなかった己れを省みること。そういった具体的瞬間において、私にとっての「批評」という言葉は引き裂かれ、不快な異音が響く。その音に耳を塞がない姿勢だけが、文学と中絶をめぐる歴史に向き合う唯一の術である。 知らず知らずのうちに私が犠牲にしてきた命がある。徐々に弱まり、今にも途絶えようとしている鼓動を感じる。それは次期に止まり、永遠の静寂が訪れるだろう。いずれ来るその瞬間を背負いながら、作家が私を批判する声に自らの声を重ねること。それを可能にする「想像力」を模索すること。ル=グウィンは、そのような試みの果てに「言葉の種」の共存を望んでいたのである。(谷垣暁美訳)(かわむら・のどか=文芸批評家)★アーシュラ・K・ル=グウィン(一九二九-二〇一八)=アメリカの作家。ネビュラ賞、ヒューゴー賞など主要なSF賞をたびたび受賞。著書に『ゲド戦記』シリーズ、〈西のはての年代記〉三部作、『闇の左手』『所有せざる人々』『こわれた腕環』『パワー』『空飛び猫』など。