かつてそこに存在していた人をめぐって 中森弘樹 / 立教大学准教授・社会学・社会病理学 週刊読書人2023年3月10日号 ある行旅死亡人の物語 著 者:武田惇志・伊藤亜衣 出版社:毎日新聞出版 ISBN13:978-4-620-32758-7 行旅死亡人という言葉を、聞いたことがあるだろうか。評者のような失踪の研究者ならともかく、一般的にはあまり馴染みのない言葉だろう。行旅死亡人とは、病気や行き倒れ、自殺等で亡くなり、名前や住所など身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す法律用語である。しばしば「無縁死」とも形容される、現代社会における人の最期の迎え方の一つだ。 本書は、記事のネタに困り、行旅死亡人データベースというサイトを眺めていた新聞記者武田が、あまりにも不可解な行旅死亡人、「田中千津子」の存在を知ったことから始まる。 彼女は尼崎の安アパートに暮らしながらも、自宅金庫に三四〇〇万円の現金を保管していた。それだけではない。彼女について調べると、右手指の全欠損、「田中竜次」という婚姻関係のない男、沖宗という名字の判子、北朝鮮との繫がりを暗喩するような星形マークのペンダント、そこに書きこまれた謎の数字など、まるでミステリー小説も顔負けのモチーフが散らばる。武田は、後に名コンビとなる伊藤に声をかけ、千津子さんに関する徹底的な調査を開始することになる。 その結末は、ぜひ本書を最後まで読んで確認してほしい。ただ、先に挙げた伏線たちは全てが綺麗に回収されるわけではない。本書はフィクションではなく、あくまでも現実の調査過程を追ったルポルタージュなのだ。けれども、謎に対して答えが出ないことは、武田と伊藤が行った調査の価値を貶めるわけではない。本書はミステリーの皮を被っているものの、その真価は謎解きとは別のところにある。 タイトルからも示唆されるように、本書はたしかに「田中千津子」の物語だ。しかし、千津子さんはすでに亡くなっているので、最後まで登場することはない。代わりに描かれるのは、「沖宗家」の家系図作りを趣味としている沖宗生郎さんや、沖宗一族のなかでも存在感を放つ沖宗正明さん、幼き日の千津子さんと小中学校で同級生だった川岡シマヱさんなど、多くの協力者たちと、そして、武田と伊藤自身である。武田と伊藤は、千津子さんの半生を追う過程で、まるで彼女の存在に、いや不在に導かれるかのように、前述の協力者たちとの関係を築いてゆく。 ここで注目すべきは、本書が武田と伊藤のいずれか一方の視点による記述が、交互に展開される構成になっているという点だ。そのため、取材が進むにつれて、武田と伊藤の様子や、二人の関係性がどのように変わってきたのかが、読者が手にとるように「見える」ようになっている。特に、伊藤視点で描かれる、武田のどこかコミカルな振る舞いは、個人的に「ツボ」だった。評者の推測によれば、この構成は、多かれ少なかれ「狙った」ものであり――単に取材過程を記述するだけなら、武田が最初から最後まで一人で書き上げるだけでよいだろうから――、本書が武田と伊藤を描く物語でもあることを示唆しよう。 このように、本書で実際に動いているのは、千津子さんのほうではなく、武田と伊藤や、その協力者たちの、「死というゆるぎない事実の上に、かつてそこに存在していた(千津子さんの)生の輪郭を少しずつ拾う」営みのほうだ。にもかかかわらず、いや、むしろそうであるがゆえに、最後まで謎だらけだった千津子さんは、いきいきとした存在感を放ち続けている。それは、千津子さんが確かに生きていたのだという実感を超えて、千津子さんがまるで今でも生きているかのような錯覚を覚えるほどだ。本書の後半に、伊藤が取材中に、「千津子さんは生きていて、錦江荘で亡くなっていたのは別人なのかもしれない」という感覚に襲われ、たまたま通りかかった老婆に声をかけるという話が出てくる。このエピソードは、読者のそのような感覚を代弁しているようにも思える。 本書は、人の生死をめぐる感覚が、単なる死という出来事にとどまるものではないという事実を、改めて教えてくれる。だからこそ、誰にも顧みられていないように見える行旅死亡人に対して、私たちはどこかもの悲しさのような感情を抱く。千津子さんは、生前は徹底して人との交流を避け、ぬいぐるみに名前をつけてベビーベッドに寝かせ、誰にも看取られずにひっそりと亡くなったという。その晩年の様子を聞いた旧友のシマエさんの発した、「一人がさえんかったろうなと思って」という言葉は、武田と伊藤を駆り立てた想いそのものでもあったのではないだろうか。 最終的に、千津子さんの身元は判明し、故郷であった広島の墓地に眠ることとなる。本書を読み終えた頃には、千津子さんはもう行旅死亡人ではなく、「沖宗千津子」という、かつて確かに存在していた一人の人物になっていることだろう。(なかもり・ひろき=立教大学准教授・社会学・社会病理学)★たけだ・あつし=共同通信社記者。二〇一五年に入社、横浜支局、徳島支局を経て二〇一八年より大阪社会部。★いとう・あい=共同通信社記者。二〇一六年に入社、青森支局を経て二〇一八年より大阪社会部。