業績重圧の学術界にも一石を投じる労作 衣川仁 / 徳島大学教授・日本中世史 週刊読書人2023年3月10日号 再生する延暦寺の建築 信長焼き討ち後の伽藍復興 著 者:海野聡 出版社:吉川弘文館 ISBN13:978-4-642-01668-1 今も多くの参拝客が訪れる比叡山延暦寺。この日本屈指の名刹の魅力はさまざまだが、深閑とした伽藍の威容とそこに立つ多様な建造物もその一つだろう。長い歴史を感じさせるこの景観が、織田信長による焼き討ちという大事件を経たものであることは周知の事実であるが、現在の佇まいにある種の落ち着きがあるせいか、現況と焼き討ちの間に存在する復興過程に思いを馳せる訪問者は少ないのではないか。 本書は、近著『森と木と建築の日本史』(岩波書店、二〇二二年)などを著して日本の建築史をリードする著者が、副題そのままに焼き討ち後の延暦寺の再生過程を丁寧に追った労作である。 再生といっても論ずべき点は多い。新造か修理か、移築されたものなのか。規模は伽藍全体に及ぶのか、建造物単位なのか。復興を計画したのが誰で、どんな意図を込めたか。そうした意図とは別に、復興を規定する時代状況はどうだったか。さらにこれらの要素が建築としてどう表れているのか。本書前半では、こうした視点に立ちながら時代ごとの特質を明らかにする。存命中の復興を許さなかった信長の没後、秀吉・家康の時代に始まったのは、根本中堂を擁する東塔エリアを除いた部分的な「仮復興」でしかなかったが、それは復興による延暦寺の勢力回復を警戒したからだという。 次に画期となるのが徳川家光の時代である。政治的な意図を含んだ「仮復興」は、一六三一年の大風によって水泡に帰すが、ここでようやく東塔を含んだ伽藍全体の復興が本格化する。焼き討ちではなく大風による倒壊という偶然が、近世延暦寺のトータルな整備をもたらしたというのが面白い。 その後も伝統を重んじる儒教思想により、新造よりも修理を基本とした綱吉期や、廃仏毀釈以降の近代復興期に分析のメスが入れられる。民間パトロンが近代的な新風を吹き込むものの、移築や古材利用が結果的に景観を急変させなかったという。本書後半では、延暦寺での調査と他所の建造物とを比較することで、近世延暦寺建築の特質と近代化の内実を明確にし、その特異性を浮き上がらせた。焼き討ち後の復興は、失われた前身への復旧を果たす可能性を含む一方で、実は刷新を図るチャンスでもあった。ところが、延暦寺ではその都度の理念や意図、あるいは社会状況がことを単純には進ませなかった。その一気呵成ではない復興のあり方そのものが現在の景観をもたらしたのだと著者はいう。 このように、本書が論じるのは復興にあたってどんな建物に変わったかということだけではない。そこに込められた理念や意図、つまりあるべき規範の問題であり、またそれらに沿って仕掛けられた意匠や構造、建築手法などの建築史的な問題であり、さらには復興を複雑化させた社会状況や歴史的環境の問題であった。あるべき規範の問題と社会状況が建築に及ぼす影響の関係、たとえばどちらがより強い影響を及ぼしたのかなど、文献史学からの興味も尽きない論点が多く、丁寧でありながら刺激的である。豊富な写真や図面をみながらじっくりと読んでほしい。 最後に。ここまでやたら「意図」「仕掛け」と強調したのは、著者が本書の出版に仕掛けた意図に触れるためである。延暦寺で実施された建造物総合調査の報告書を再構成した本書の「丁寧に追った労作」ぶりはそこに由来するのだが、こうした調査は地道なものであり、目に見える業績からは迂遠なものに見えてしまう。特に若手の研究者は、目に見える業績を出せという重圧に迫られ、迂遠ながら豊かな成果に結びつくであろう基礎的な調査研究を避ける現状もあるという。著者が〈報告書の書籍化〉という「仕掛け」に込めたのは、調査と業績の間隙に一定の道筋をつけたいという思いである。地道さと丁寧さを要求される調査研究とどう向き合うか、学問の規範とは何かという問いが重く残った。(きぬがわ・さとし=徳島大学教授・日本中世史)★うんの・さとし=東京大学准教授・日本建築史。二〇〇九年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程を中退。二〇一三年、同研究科にて博士号(工学)を取得。著書に『建物が語る日本の歴史』『古建築を復元する』など。一九八三年生。