理屈を受け付けない、要約不可能な詩的作品 立林良一 / 同志社大学准教授・ラテンアメリカ文学 週刊読書人2023年3月17日号 パラディーソ 著 者:ホセ・レサマ=リマ 出版社:国書刊行会 ISBN13:978-4-336-07384-6 本作はキューバの詩人、小説家、そして批評家でもあるホセ・レサマ=リマ(一九一〇―七六)が一九六六年に刊行した長篇小説である。一九六〇年代といえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』を筆頭に、ラテンアメリカ出身作家による様々な小説が世界的に評価、注目され、ラテンアメリカ文学の〈ブーム〉と呼ばれる現象が引き起こされた時代であるが、レサマ=リマはむしろ、そうした〈ブーム〉世代(同国のカブレラ=インファンテやアレナスら)にとっての師表ともいうべき存在であった。彼が一九四四年から五七年にかけて主宰した『オリヘネス(起源)』という文芸誌は、キューバのみならず世界の同時代的作家・詩人の作品を紹介し、ラテンアメリカの知識人に多大な影響を与えていた。『パラディーソ』も、その前半部分がまずこの雑誌上で発表されたのである。 一九五九年のキューバ革命後、カストロ政権下において彼は文学出版部門の長となり、カサ・デ・ラス・アメリカスという文化機関を通して当時の〈ブーム〉の作家たちを積極的にキューバに招聘した。そうした中で個人的にも親交を深めたのがアルゼンチン出身のコルタサルで、『パラディーソ』を高く評価した彼が、瑕疵の多いキューバ版を自ら丁寧に校閲し、メキシコの出版社から刊行される道筋をつけたことで、この作品は世界的に知られることになった。 物語の主軸となるのは、作者自身と重なり合う主人公ホセ・セミーの父方、母方双方の家系の十九世紀末からの年代記と、ホセの文学への目覚めから大学時代へと至る成長の過程、そして彼の友人であるフォシオンとフロネーシスの家族の物語、ということができるが、自伝的小説という範疇には到底収まらない。 ダンテの『神曲』を意識したタイトルがつけられたこの長篇は、散文詩ともいうべききわめて独特な文体で書かれているため、数行を理解するのに何度も読み返さなければならないことも少なくない。さらに主人公の喘息の治療薬によって引き起こされたと考えられる、論理性を欠く幻想的描写がなんの前触れもなく物語の流れをたびたび中断する。最終十四章では、ホセの父親の臨終に立ち会ったというオッピアーノ・リカリオという人物が現れて彼自身のことを話し始めたあげく、「さあわれわれは始めることができる」という言葉とともに、この長い物語は読者を置き去りにしたまま、幕を閉じるのである。 同じキューバの作家カルペンティエルが、アメリカ大陸の驚異的現実を表現するための文体的挑戦として発表した『この世の王国』(一九四九)は「魔術的リアリズム」の代表作のひとつに数えられるが、レサマ=リマの文体は、それとはまったく趣を異にする。論理ではとらえきれない人間の内面も含めた、生の総体を言葉によって表現しようとする試みが、合理的読みを拒絶する詩的表現に結びついたとするなら、読者もそうした作者の感覚と共鳴するべく、心を開いて無心に文章に向き合う必要があるだろう。 また一方で、ボルヘスにも比肩しうる作者の博覧強記ぶりがこの作品にもいかんなく反映しており、古代ギリシアから現代までの世界文学、キリスト教、仏教といった宗教、西洋、東洋の哲学思想など、ありとあらゆる文化・芸術への言及が随所でなされている。読者はめくるめく知のレベルに圧倒されながらも、その文体から思わず笑いを誘われてしまうこともしばしばで、そうしたユーモアが難解さと同居している点も、この小説の特徴といえる。 本作の訳者旦敬介はペルーのバルガス=リョサの長篇小説『ラ・カテドラルでの対話』(一九六九)も翻訳している(岩波文庫)。これもまた相当に難解な作品で、読み通すのにかなりの覚悟と忍耐を要求されはするが、その難解さは、複雑な社会全体を力業ともいうべき構想力でひとつの作品に封じ込めようとしたがために生じたのであって、合理的な読みを否定する要素は一切含まれていない。レサマ=リマの、理屈を受け付けない、要約不可能な本作の難解さは、最近人口に膾炙するタイムパフォーマンス(タイパ)の対極に位置するもので、腰を据えてじっくり感性で向き合うことが求められる。 原文を読み通すだけでも一筋縄ではいかない本作の翻訳を二十年がかりで完遂させ、日本の読者の手に届けてくれた訳者に、心からの賛辞を贈りたい。ラテンアメリカ文学の重要作品があらかた邦訳されている中、最後まで残されていた未踏峰が、ついに征服されることになった。丁寧に付された訳注、巻末の解説、二十前に発表された論考の再録、各章の概要、主人公の家系図は、この作品に果敢に挑戦しようとする読者にとってありがたい道しるべである。(旦敬介訳)(たてばやし・りょういち=同志社大学准教授・ラテンアメリカ文学)★ホセ・レサマ=リマ (一九一〇―一九七六)=詩人・小説家・批評家。ハバナ生れ。官吏として勤めながら『ナルシスの死』『敵なる物音』などの詩集を発表する一方、自費で文芸雑誌を刊行した。