新たなベンヤミン像を描きだす 小林哲也 / 京都大学准教授・ドイツ文学・精神史 週刊読書人2023年3月17日号 一冊の、ささやかな、本 ヴァルター・ベンヤミン 『一九〇〇年ごろのベルリンの幼年時代』研究 著 者:田邉恵子 出版社:みすず書房 ISBN13:978-4-622-05585-9 二〇世紀を代表するドイツのユダヤ系思想家ヴァルター・ベンヤミンは、ナチス政権樹立の前後、故郷ドイツとの離別を予感しながら、自身の幼年期を回想する多数のエッセイを書き、これらを「一冊の、ささやかな、本」として公刊しようとしていた。生前は日の目を見ることのなかったこのエッセイ集は、一九五〇年に友人テオドーア・アドルノの尽力によって『一九〇〇年ごろのベルリンの幼年時代』(以下『幼年時代』)として公刊された。 本書『一冊の、ささやかな、本』は、二〇一九年に刊行された批判版新全集の『幼年時代』に収録された多数の草稿やノート類を検討することでテクストの生成過程とそこに一貫するベンヤミンの「方法」——回想の技法——を明らかにしている。気鋭のドイツ文学研究者による本書は、多数の先行研究の渉猟と検討、関連テクストの十分な読解と調査に裏打ちされ、説得力ある丁寧な議論を展開している。著者の田邉は、「郷愁」の抑制、「発見」と「新生」といったモティーフを強調することで、「失われた幸福」を哀惜するメランコリックな作品として読まれてきた『幼年時代』を新たに読み解くための視座を提示している。 本書は先行研究の整理と問題提起を行う序論と、三部の本論からなる。序論、および第一部では、『幼年時代』の形成過程を、その前身テクスト(『ベルリン年代記』)にまで遡りながら、丹念に追っている。『幼年時代』の改稿過程の検討から、ベンヤミンがテクストから「私」という一人称と、個人的な思い出をそぎ落とし、「郷愁」を抑制していったことが明らかにされる。田邉はこの改稿過程にベンヤミンの意識的な方法論があったことを強調し、ベンヤミンの「回想」が、例えば、彼自身が力をこめて論じていたマルセル・プルーストの「無意志的記憶」と違って、意志による構成に支えられていたことを論じている。本書での読解は、「脱主体」的な方向一辺倒でベンヤミンを理解するのではなく、テクストからは意識的に「私」を消しつつも、イメージの構成においては、むしろ主体的な意志を示していたベンヤミンの姿を描き出しており、新鮮な印象を受ける。 第一部で詳論されたベンヤミンの回想の性格と方法について第二部ではまた別の角度から議論が深められていく。「回想」の力点が、失われたものの哀惜にではなく回想の中で生じる「発見」にあること、そして、「発見」する主体が「子ども」であることの指摘が特に重要である。田邉の指摘で改めて意識する読者も多いと思うが、『幼年時代』の主人公は、回想するベンヤミンではなく、幼年時代の「子ども」である。世の成り行きを知らずにいるが故に、無邪気に自分の世界で遊ぶことができる子ども、理解できない言葉を自身の世界に取り込もうとして想像を逞しくする子ども、一人になれる避難所で密かな安心感を確かめる子ども――ベンヤミンが回想の中で描き出すこうした子どもたちの姿を、田邉は丹念に追っていく。子どもは、「雲」のように不定形で見通せない世界に向かい合いながら、そこに潜んでいる何かを想像力を働かせて「発見」していく。ベンヤミンの「回想」は、こうした子どもによる発見プロセスを再認識するものであり、回想の中には、新たな「発見」の芽と「新生」の希望が示されている。 第三部で提示される「家としての書物」、亡命者の避難所としての「書物」といったモティーフは興味深いものだが、序論での問いに呼応する形で、詳論すべきものであるように思われた。様々な場、様々な機会に発表された論文をもとにしたという成り立ちのためもあって、本書全体のまとまりはやや緩やかな部分もあり、提示された重要な論点の全てが十分に展開されているわけではない。しかし、今後の新たな発見の種は十分に撒かれており、すでに芽も顔をのぞかせている。ささやかにも見えるが力強い芽である。(こばやし・てつや=京都大学准教授・ドイツ文学・精神史)★たなべ・けいこ=新潟大学准教授・ドイツ文学。二〇一九年、早稲田大学にて博士号(文学)取得。一九八八年生。