死去前年の賢太の周辺を描く最後の創作集 小谷野敦 / 作家・比較文学者 週刊読書人2023年3月24日号 蝙蝠か燕か 著 者:西村賢太 出版社:文藝春秋 ISBN13:978-4-16-391657-6 西村賢太の急死から一年がたち、最後の創作集として出たこれは、ファンの要望に応えてのものだというが、私のように、自作小説の刊行もまだ決まっていない身にはかろき妬みすら覚える。このところ、五十四歳で急死した西村賢太の人気ぶりに嫉妬する自分に時おりは呆れることもある。これで賢太作品で単行本に入っていないのは、「人糞ハンバーグ 或いは「啄木の嗟嘆も流れた路地」」(『文學界』二〇二〇年二月号)だけになった。藤澤淸造ものでまとめるために外されただけだろう。 本書表題作は割と長く、現在つまり死去前年の賢太の周辺を描いており、残る「廻雪出航」「黄ばんだ手蹟」はかなり短く、やはり現在時の自身を描いた私小説である。ここでふと、短編に与えられる川端康成文学賞を欲しがっていた賢太を思い、絶筆『雨滴は続く』は、野間文芸賞か読売文学賞をとるだろうと思っていたのに叶わなかったのを残念に感じるのである。ここに収められた三作はみな、賢太が「歿後弟子」を自称していた藤澤淸造に関するもので、表題作に至っては、藤澤の全集や伝記を賢太自身の編纂と解説執筆で刊行する「露払い」として、新潮文庫版『根津権現裏』や短編集二冊を出したのが、二年ほどで絶版になったため、再度別の版元から二冊の文庫版藤澤作品を出すために奔走したという話なのだが、藤澤のような読んで面白くない小説が二年で絶版になるのは分かり切った話で、それをまた、講談社など賢太との関係がいいとは思えない出版社から文庫として出すために奔走するというのは実に読んだ当時から意味不明に思っていたのだが、私はもしやしてこの人はもう藤澤の全集だの伝記だのを出すのが嫌で、それであれこれと理屈をつけて延引しているだけではないかとすら疑っていた。その疑いは晴れたわけではないし、今後それらが世に出ることは実際ないだろう。 「藤澤淸造の歿後弟子」などというのは、結局は賢太の、私小説作家としてやっていくための「型」ないしはブースターに過ぎず、淸造を発見する直前まで田中英光を研究していた賢太が、心底藤澤がそんな大した作家だと思っていたとは思えず、そのような忘れられた作家の北陸の墓の傍らに生前墓を作り毎月命日には仏事を行うため出向くといった行為が、地方新聞などには恰好のネタになりうることを計算しての行為ではなかったかと思う。『雨滴は続く』に登場した地方新聞の記者「葛山久子」が変名のまま登場したのにも驚いたが、「蝙蝠か燕か」によれば、やはり北陸方面なのであろう、同棲相手もいたということも記されていて、今後、西村賢太研究として、その相手の女性の特定に勤しむ学究も出てくることだろう。 最初の「廻雪出航」には、三十歳になって藤澤研究を始めたころ、石川県立近代文学館の館長のI氏から紹介された女性老エッセイストと会う計画を立てていたら、忙しいといってキャンセルされた話が出てくるが、I氏というのは井口哲郎さんのことだろうが、エッセイストのほうは分からない。 本創作集中にも何度か名前の出る賢太の作品「芝公園六角堂跡」は、二〇一五年七月号『文學界』に発表されたものだが、当時から批判の声があり、賢太も当初は失敗作と言っていたように記憶するが、そのあと突如、これを認めないやつは無縁の衆生で、僕のものは読んでくれなくてもいいと暴言を吐くようになった、エポックメイキングの作で、私などもこの作を失敗作と見ているから、賢太から遠ざけられたという意識はある。これは、芥川賞をとってちょっとしたスターになった賢太(作中では当然ながら北町貫多)が、それで知り合いになったポップ歌手のコンサートへ行き、盛り上がった帰途、藤澤淸造が狂凍死した芝公園六角堂跡へたどり着いて、舞い上がっていた自分を反省し、初心に返るというものだが、私はここに出てくるポップ歌手というのをよく知らなかった。要するにそれだけのことで、別に舞い上がった自分を反省するほどに賢太は持ち上がっていたわけではない、ということだし、実際この程度のことで反省が必要だと思う読者もいなかっただろうが、賢太の自負と自虐のバランスがここで崩れ、ついに最後まで平衡がとれなかったということになろうか。 「たださえ未だに暴飲暴食の悪癖がやまず、連日百本の煙草を灰にしている。基本的に、体調の良い日と云うのがない。この不摂生の自業自得が持ち前の不運さに直結したなら最後、もう百年目である。〝せいぜいが、あと十年〟なぞ云うのは、これはとてつもなく虫の良い囈言と、まるで同義のものであろう。」 という通りのことになったが、編集者や周囲の人々に対する暴言の数々は、遺作が何の賞もとれないという結果となり、著作権は遺族に継承されず石川県立近代文学館が引き受けることになったというわけであろう。もっとも私としては、あそこで死なず、すべての文藝雑誌からパージされた賢太がどういう手に出るか、見てみたかったといういくらか嗜虐的な関心もないではない。もっとも、貯金が結構あったようだし、人気もあったから、作品を書きさえすれば出してくれる出版社もあったろうという気はする。 つきあいのあった朝日書林の荒川義雄の「西村君との三十有余年」(『文學界』二二年七月号)によれば、最近は本が売れないことへのかなりな鬱屈もあったというし、『文學界』以外の文藝雑誌からパージされている苦しさもあったと思うが、それらが十分に私小説に反映されていないことへの憾みも感じる。パージについては、またいつか戻れるかもしれないという希望があって書けなかったのかもしれないし、発表媒体でそういうことは載せさせなかった可能性もないではないが、出版不況がますますひどくなる現在、私小説などという最後の塹壕のようなところに立てこもっていた西村賢太は、〝戦死〟したとも言えるのではないかとすら思わないでもない。だが、戦争は(ウクライナ戦争のことではなく)まだ終わっていない。「安らかにお眠りください。過ちはこれからも繰り返されます」と言いたい気持ちである。 賢太に僅かに先立って死んだ石原慎太郎とは親しかったが、石原が最初から賢太を認めていたかのような言説を当人が発しているのは事実に反していて、芥川賞の選評を見ればすぐ分かることで、賢太への授賞を言い出したのは島田雅彦のはずである。 純文学や私小説の現状は、戦争中に近いものがある。芥川賞候補でもなく、地位を確立した作家でもなければ、純文学の小説を出してくれる大手出版社はない。西村賢太は、その意味ではいい時に死んだとさえいえるくらいである。(こやの・あつし=作家・比較文学者)★にしむら・けんた(一九六七―二〇二二)=作家。著書に『どうで死ぬ身の一踊り』『暗渠の宿』『苦役列車』『二度はゆけぬ町の地図』など。