B位相からA位相への反転で何が分かるか 菅原潤 / 日本大学教員・比較哲学 週刊読書人2023年3月24日号 沈黙を生きる哲学 著 者:古東哲明 出版社:夕日書房 ISBN13:978-4-334-99014-5 目次を見れば分かるように、本書の議論は哲学の枠に収まらずに映画論、現代の科学者の見解、平和論、仏教論および個人的体験にまで及ぶものであり、そうした多様なメニューのなかから好みの見方を選択して読み進めてゆけばよい。 序章で著者は「言いえないこと、言葉がとどかない静寂に、触れて(触れられている)こと」(八頁)が「沈黙」だとし、その後「大切なことは沈黙のなかで起きる」と銘打たれた一節に続く。ここで評者が連想したのは、昨秋フジテレビ系で放送され好評を博したその名も「Silent」と題されたテレビドラマである。 高校卒業直後に聴覚を失った佐倉想(目黒連)が青葉紬(川口春奈)と戸川湊斗(鈴鹿央士)と再会するというのがドラマのメイン・ストーリーである。高校時代に想と恋愛関係にあった紬が同じサッカー部の親友の湊斗には言葉を発するのに対し、自分には声すら発してくれない想に不満をこぼしたところ、自分が聞き取れないくらいだからいくら紬という名前を呼んでも言葉が届かないのではないかと不安に思ったからだと、想が手話で返すシーンがドラマ全体のクライマックスになる。 確かにここでは音声言語とは違う手話という言語により意思表示がなされているので、厳密に言えば「沈黙」ではないのだが、音楽が流れず手話と字幕のみが放送されるこのシーンが恋人に対する強い思いをまさしく雄弁に語っており「大切なこと」がこの瞬間に起きているという思いを強くした。こうしたある種の逆説的な事態を著者は対象像を形成する知覚的なB位相と、不可視の実在世界であるA位相が反転するものとして理解し、ハイデガーや西田幾多郎を援用して話を進めてゆく。第三章に入ると存在は「無底」とする議論が展開されるが、その「無底」が理解のキーワードになるシェリングに著者が触れていないので、シェリング研究者として若干補足を試みたい。 「無底」が登場する『自由論』ではなく、二種類の無を区別する『哲学的経験論の叙述』が著者の主張と重なっている。ここでシェリングは古代ギリシア語で用いられる語法である現実性のみならず可能性も否定するウーク・オンと、現実性のみを否定して可能性の存在を示唆するメー・オンが区別されていることに注目したが、著者の言う無、あるいは第二章で触れられるダーク・マター、ダーク・エネルギーはこのメー・オンではないかと推定される。 ちなみにこの二種類の無を敢えて混同しては区別するのが、いわゆる弁証法ではないかというのが評者の見立てである。 終章に現れる「黙受」を読んで連想したことを書くことで、この散漫な書評を締めくくりたい。著者は明らかにホロコースト、広島・長崎の原爆投下、そして原発事故などの未曾有の悲劇を念頭に置きながら、敢えて「すべてをゆるす」「海容倫理」(二七四頁)を主張する。 この悪を許容しかねない倫理を本当に「倫理」と呼んでもいいのかという読者の反発を十分に考慮しつつ「言いえないこと」に触れる「沈黙」を知った者には、この「海容倫理」の真意が伝わると著者は確信している。 ここで連想したのは評者が長崎市に居住した時期にインタビューした、昭和天皇に戦争責任があると発言したことが理由で右翼により銃撃を受けた元長崎市長の本島等の発言である。原発事故の直後に放射性廃棄物の処理の問題が真剣に取り沙汰された時期に、生前の本島は原爆投下とキリシタン弾圧による甚大な被害を被った自身の出身地である五島列島に廃棄物を受け容れる用意があると発言した。 原発推進とも受け取られかねない発言だが、この悪を嬉々として受け容れる態度に言いようもない感情に襲われたことを今もはっきりと覚えている。蛇足になるが、ドラマで青葉紬を演じた川口春奈はその五島列島の出身である。(すがわら・じゅん=日本大学教員・比較哲学)★ことう・てつあき=広島大学名誉教授・NHK文化センター教員・哲学・現代思想。著書に『〈在る〉ことの不思議』『ハイデガー=存在神秘の哲学』『瞬間を生きる哲学』など。一九五〇年生。