悩める人とともにある目と耳 北條一浩 / ライター週刊読書人2023年3月31日号 街の牧師 祈りといのち著 者:沼田和也出版社:晶文社ISBN13:978-4-591-17602-3 ネットを中心に多数のレビューが飛び交い、大きな反響を呼び起こした前著『牧師、閉鎖病棟に入る。』(実業之日本社)からわずか一年半で、早くもこの二冊目が現れた時には驚いた。筆の速い流行作家なら一年半あればじゅうぶんかもしれないが、沼田氏は牧師で、しかもデビュー作と第二作なのだ。両著ともタイトルに「牧師」という言葉が入っているのは、これが宗教の、もっと言えばキリスト教関連本の棚の前に自ら足を運ぶような人ではなく、もっと多様な人との出会いを求めて、一般書の大海のほうへ漕ぎ出す意志と期待が作者及び版元にあるからだと思う。 前著が閉鎖病棟で今回が街。街とは広がりのことだから、閉鎖系から開放系にあざやかに移行したのか、といえば、そうとも言い切れないようだ。前著が精神を病んだ自分自身を見つめたものだとすれば、今回は牧師としてある時不意に遭遇した人や、教会を訪ねてきた人など、他人のことが多く書かれているとは言える。もっとも、今作でも多くの悩める人と相対するなかで、キリスト教というバックボーンがあるとはいえ、人々に対して教え諭すような姿はほとんど見られない。悩める人とともに悩み、考え、途方に暮れ、そんな自分に嫌気が差したり反省したり、あえて言ってしまえば、不景気なこと、この上ない。本書には処方箋とカタルシスが無い。 では何があるのか。どんな人でも自由に訪ねることのできる街の教会、という場所に身を置き、日々、何かしらの気持ち(その多くは苦しみだ)を受け止めることを職業として選んだ人は、自分ではない他人のことをこんなふうに見ているのか、というその眼、がここにある。それはけっして観察眼、というような冷静なものではなく、時には泳いでしまうかもしれないような眼である。そして、耳。語り掛ける口よりも、言葉を挟まず、ひたすら苦しむ人の言葉を受け容れ続ける耳、がここにはある。 繁華街で「ねえ、ラブホいかへん?」と誘ってくる「中学生くらいの」少女が出てくる。どうやら家族と折り合いが悪く、家を飛び出した彼女は、今日のように逆ナンパ(?)したり、その時々で知り合った人間の許に転がり込んだり、半ばホームレスのような生活をしているようだ。遭遇してしまった以上、沼田氏はどうにかしたいと考える。親許に返すのとは違うやり方で、この子を保護する方法は無いものか。せめて今晩の宿だけでも……。しかし事態は思いがけず厳しい局面を迎え、彼女は「警戒に光りつつ後ずさる細い眼」を見せながら立ち去ってしまう。 「なにもできなかった」という思いに打ちひしがれながら、それでもこの出来事から少し経って(「書く」という行為はいつだって遅れた行為、それゆえ決定的な出来事をもう一度見つめ直す行為だ)、著者は書く。「忘れようとしても忘れられず、いつまでも頭にこびりついており、『あの後、あの人どうなったかな』と気になり続けている。そのこと自体が祈りなのである」。 本書はまさに、さまざまな「気になり続けている」ことが集められたものであり、その意味でこの本が書かれたこともまぎれもなく「祈り」の実践の一つなのだと思う。 そして最後になんとしても触れたいのが本書の装丁について。やはりキリスト教信仰者だという井上直氏の装画ほど、本書の世界を如実に体現したものもまたと無い。まるでゲラをすべて読んでから描きおろしたような絵だが、実際は著者の沼田氏が念願かなって入手し、「どうしてもあの絵をカバーに」と熱望したものだという。 この絵に街が、街の多くの建物が、そしてその中にポツンと小さな教会が描かれている(十字架があるから白い建物は教会だとわかる)。しばらく見ていると、街は深夜または早朝で、雨が降っていることに気が付く。そして多くのビルの中で、一つだけ黄色い灯りが……。これは夜更かしなのか早起きなのか……。 テキストと絵の最高の遭遇を、ぜひ手に取って確かめてほしい。(ほうじょう・かずひろ=ライター)★ぬまた・かずや=日本基督教団牧師。高校を中退、引きこもり生活などの紆余曲折を経て、関西学院大学神学部に入学。伝道者の道へ。二〇一五年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会(日本基督教団王子北教会)で再び牧師をしている。著書に『牧師、閉鎖病棟に入る。』など。一九七二年生。