更新された高松次郎の作品世界 松井茂 / 詩人・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]・映像メディア学 週刊読書人2023年3月31日号 高松次郎 リアリティ/アクチュアリティの美学 著 者:大澤慶久 出版社:水声社 ISBN13:978-4-8010-0674-4 李禹煥の大回顧展が昨年から今年にかけて日本国内で開催されたことは記憶に新しい。横尾忠則は本紙での連載をはじめ、多くの展覧会情報でその名を見かけない日は無いくらいだ。一九六〇年代後半から現代アートを牽引するこのふたりの存在感は、二一世紀になっても圧倒的だ。すでにアートヒストリーに名を止める存在であるにもかかわらず、未だに作風を刷新し続ける旺盛な活動には舌を巻く。そして、二人と同じく一九三六年生まれ、一足早く一九九八年に没した高松次郎が本書の主題である。高松は、一九五〇年代から活動を始め、一九六〇年代前半にはすでにスター的存在であった。李、横尾の活躍を見るにつけても、高松がいま活躍していてもそれほど不思議では無い並行世界を夢想し、私の現代アートの時空は歪む。言い換えると、この世代の作家たちを研究対象とする困難さを感じるということが、偽らざるところだ。現状、研究者自身もまた、作家たちの時代区分に含まれる点において、当事者研究的な性格を許容するか、網羅的な資料体を編成することで分母(マトリックス)を形成するか、あるいは時空を隔絶した理論化という選択肢が思い浮かぶ。 本書の版元である水声社を通じて、ある意味で当事者研究的な観点から、真武真喜子、神山亮子、沢山遼、野田吉郎、森啓輔(編)『高松次郎を読む』、光田由里『高松次郎 言葉ともの』があるだろう。また資料体の編成という意味では、Yumiko Chiba Associatesによる取り組みが大きく、高松没後の国際的評価を確立する契機をつくってきた。 そして本書は、こうした先行研究を踏まえ、高松作品のハードコアな理論化を達成した。多くの読者に、非歴史的で普遍的、美学的な作品記述の読み応えを堪能してもらいたい。 その手法は、一九七三年に高松が李との対談で述べた、「リアリティ」と「アクチュアリティ」の対比によっている。前者は「真実」、後者を「事実」と作家は言い換える。一九六〇年代、「虚像」という語が多く語られ、国際的同時性とは一線を画した、日本独自のイメージ論が展開した(と私は考えている)。この中心に高松も李(も横尾)もいた。彼らと交流の深い磯崎新(一九三一―二〇二二年)は、一九六〇年代に「虚」と「実」の対立でなく、「虚」から「実」を経た対極に「闇」があると述べた。そして「虚=ヴァーチャリティ」、「実=リアリティ」、「闇=アクチュアリティ」だと私に説明をしたことがある。未だ私はその核心を捉えきれずにいる。他方で、李は「虚像」なる概念を批判することから批評と制作を展開するし、横尾は自らを「虚像」化しようと考えていた。一九六八年ころの状況としては、李にとっての虚像は概ねトリックスを指し、横尾はメディア技術による複製を、高松は影のイメージを描き、これを哲学的に探求した。 ちなみに私は、一九六〇年代にこうした傾向を大いに論じた美術批評家、東野芳明(一九三〇―二〇〇五年)の発言を中心に、磯崎や横尾が注目したメディアと「虚」を主題にした研究をしてきた。東野を中心にした面白おかしく、それゆえにパフォーマティヴな虚像論は、私の当事者研究かつ資料集的なエッセイに留まっている。分析はおろか、虚像の定義にもいたらなかった。こうした自分の拙さをふまえ、本書の大澤の論を読むと、「リアリティ」と「アクチュアリティ」の分析、定義を通じて対極から虚像があぶり出されてくるのだ! 例えば第四章「コピーと文字作品」においても、初出の論文を読んだ際の衝撃を改めて想起するのだが、「リアリティ」と「アクチュアリティ」の分析が加筆されたことで、「虚」「実」「闇」の関係性を一挙に示された思いがした。これは極特殊な私の読みであり、本書において「虚」と「闇」が直接語られているわけではないのだが……。同様に第六章「美術と写真の接面」においても「リアリティ」と「アクチュアリティ」の分析にうなるしかない。「写真の写真」こそ「虚像」として捉えてしまうところを、「タイトルと写真を二重化(もしくは三重化)」したアンチ虚像的な経験の質の指摘は重要だ。そして、この裏返し虚像論の仕上げは、書き下ろしの第八章「自己の永久革命」における高松の思考と、サルトルの『存在と無』の重なりが論じられる。 これまで高松の人物像に近づく、あるいは懐かしむような話題を聞くことが積み上げてきた議論にも価値はあるだろう(私もそうしたことを書きがちだ)。しかし大澤の議論は、ある意味で人物としての高松にフォーカスしないことで、作品を構造的、哲学的な価値観から論じることに成功している。正直なところサルトルを社会史的な影響に留まらず、作品論に着地させた説得力に、新たな高松像を提示された衝撃から私は未だ立ち直ることができない。李や横尾と同世代のアーティストとして存在していた高松が、その作品においては、この研究によって位相の異なる存在に進んだように思われた。作家による新たな作品の登場ではなく、研究者による新機軸の提示は見事だ。(まつい・しげる=詩人・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]・映像メディア学)★おおさわ・よしひさ=一九八一年生。東京藝術大学大学院教育研究助手、関東学院大学非常勤講師・近・現代美術史・美学。論文に「高松次郎《日本語の文字》《英語の単語》再考 複製メディア時代の芸術作品におけるオリジナルとコピーの問題を軸に」(『美学』257号)など。