人文学徒に示唆をもたらしてくれる自伝 倉科岳志 / 京都産業大学教授・近現代イタリア思想史 週刊読書人2023年3月31日号 独学の思想 著 者:上村忠男 出版社:未來社 ISBN13:978-4-624-01201-4 本書は上村忠男の学問活動が当時の文脈とともに語られる自伝である。一九六七年のかれは実証主義によって学問の理念がたんなる事実の学になってしまったとの問題に向き合い、E・G・A・フッサールに依拠して過去の事実の内的な意味構造に踏み込まねばならないと考えた。そして同様の関心をG・ヴィーコにも見出し、その思想に存在する「言語の創出過程にある隠喩作用」への考察を指摘したという。 学問的出発点が示されたのち、『反日革命宣言』の所感や北一輝解釈史の重要箇所が開陳されつつ、一九六〇年代後半から七〇年代にかけての左翼運動と三島の自殺が語られる。そんな状況下、アカデミズムに戻った上村は「学問論的状況に鈍感な」歴史家たちに本来の人文主義に戻るべきと提案し、この目標を研究のみならず、大学とそれを補うかたちで行った寺子屋教室の活動にも反映させた。続いて八〇年代から九〇年代、かれはC・ギンズブルグの読解を通じテクストのゆがみとその外的現実、〈われわれの現在〉の特権化による歴史の暴力を考慮の上で、「歴史の他者」の視点に立って歴史を異化し他化する「歴史のヘテロロジー」にたどり着いた。そして、G・C・スピヴァクの「〈非知〉の境地への自己超越」、E・W・サイードの「世界全体が異郷」というあり方に目を向けた。こうした見地を、日本と沖縄の関係史と対照させ、科研費プロジェクト「近代国民国家形成における国民的『記憶』の総合的研究」において「ナショナルなものの中にナショナリズムを破裂させる因子を発見」すべきとの谷川健一の見解を考察した。このように史家や人類学者との接点を保ちながら、上村はヴィーコ研究を継続し、絵画が可能にする一挙総覧性というトピカ的知を発見したと述べる。 その後、脳梗塞に見舞われた二〇〇四年の転機前後が語られる。上村はA・グラムシ論に加え、李静和の『つぶやきの政治思想』を検討し、李が恥を〈はにかむ〉ことによってはじめて生きてくることができた点に注目し、ここには性と恥という、語りの可能性の極限が取り上げられていると指摘した。続いて、B・クローチェとG・ジェンティーレ以後のイタリアの思想家たちを紹介し、とくにG・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』の意義を強調した。アウシュヴィッツに収容された者たちのなかでその過酷さによって人間的なものと非人間的なものの閾に落ち込んだ、いわゆる「回教徒」の主体は脱主体化した主体であり、生き残った証人は脱主体化をこそ証言すると論じた。他方、歴史家側の権力関係に言及していないとのギンズブルグによるM・ブロック批判にも注意喚起した。そして、自らの専門分野に戻った上村は、ヴィーコ思想の基礎をなし、運動と延長とを引き起こす不可分の形而上学的点の系譜を探求し、それが「ゼニスト」と称される一七世紀の人々と、実在的で生気を帯びた原子に関するライプニッツの論文に求められるとの仮説を提示したとする。 本書全体のなかでとりわけ目を惹くのは岩波シリーズ『歴史を問う』における実務家たちとの対話である。そのなかで山本ひろ子は儀礼や呪術のような自他強制関係における言語は、彼岸的な世界を現出させる、行為としての言語であるとし、川田順三はモシ族が「太鼓コトバ」を使うときには自分の身体の比喩で世界に切れ目を入れており、そこでは時間と空間がオーヴァーラップしていると述べた。こうした議論に上村は「科学的認識」も神話的意識の一形態ではないかと問うたと語る。 本書冒頭のG・ソレルの言葉同様、上村は自己の問題意識に導かれ独り思索し、その結果を他分野の学者たちに見せた。そして、何度もヴィーコへ立ち返っては研究を深めた。巧妙な構成と濃密な記述で描かれたこの軌跡は、哲学や歴史のみならず、広く人文学に携わる人々に有益な示唆を与えてくれる。(くらしな・たけし=京都産業大学教授・近現代イタリア思想史)★うえむら・ただお=東京外国語大学名誉教授・思想史。著書に『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』『ヘテロピアからのまなざし』『ヴィーコ論集成』など。一九四一年生。